ゼロZone | とりあえず今日を生き 明日もまた今日を生きよう

とりあえず今日を生き 明日もまた今日を生きよう

山の麓で 英語塾をしています。週末は東の都 東京のおうちで過ごし とりあえず今日を 明日もまた今日を生きようと ゆるりゆるりをモットーに過ごしています。


主日礼拝を守り
献金を重んじ
聖書を毎日読み祈る

神中心の生き方を実践することは
単純なことですが 
真の悔い改めを伴った信仰がなければ
それを選びとることはできません

これはキリスト教の
プロテスタントの福音派の
ある先生が書かれた文章だが

この文章からすると
その先生のおっしゃる
神中心の生き方の実践とは

礼拝にちゃんといき
献金をちゃんとして
聖書を毎日読んで
お祈りを毎日するということらしい

それは横に置いておいたとしても

真の悔い改めを伴った信仰がなければ 
それを(その生き方)を
選びとることはできない

という文章の意味するところは

つまり

‘’真の悔い改めの伴った信仰を持つ
クリスチャンならば

主日礼拝を守り
献金を重んじ
毎日聖書を読み祈る
という生き方を
選びとれるのである

もしそのような生き方を
クリスチャンとして
選びとれていないならば

真の悔い改めを伴った信仰を
持ってはいないのである‘’

というものである

福音派の本でよくお目にかかる
いっけん信仰的にまっとうなことを
書いてあるように思わせる文章だが

裏を返しよく読めば
強迫的な怖い文章である

こんなことを書かれれば
このような生き方を
選びとれていると
自負するクリスチャンならばよいが

真の信仰者たらんと願いながらも
このような生き方を
選びとれていないクリスチャンならば

礼拝にちゃんといかなければ
献金もちゃんとしなければ
毎日聖書を読まなければ
毎日祈らなければとなり

真面目なクリスチャンほど
自責の念を抱かずには
いられなくなるだろう

それが自発的なものにせよ
真の信仰者ならば
そのような行動を
選びとれるように
ならければならないのだと
誘導的に思い込まされるならば
それはマインドコントロールである

わたしは神様を信じながらも
礼拝にはいけておりません
献金もしておりません
毎日聖書も読んでおりません
お祈りも あぁ神様と
呻く程度でございます

そのようなわたしは
真の悔い改めを伴った信仰を
持っていないクリスチャン
なのでしょうか?

この問答は
こうでなければこうという
二元論を用いたものだが

白か黒かという二元論ではなく
ゼロzoneを持つことは
マインドコントロールから
自分を守る助けになるらしい
 
ゼロzoneとは
白か黒でもどちらでも良いという
ゼロポイントフィールドのこと

もっとひらたくいえば
‘’ どっちでもいいやん‘’ と
自分で思うことである

わたしは

プロテスタントの福音派の
この先生のおっしゃるところの
ものさしではかられるならば

礼拝にもいけていません
献金もいたしておりません
毎日聖書も読んでおりません
お祈りも呻き程度が
精一杯でございます

という‘’真の悔い改めを伴った信仰‘’
を持つクリスチャンには
ほど遠い者であるが

もう そんなこと
どうでも良いと思う

むしろ

真の悔い改めを伴った信仰がなぜ

主日礼拝を守り
献金を重んじ
毎日聖書を読み祈ることになるのか

真の悔い改めの信仰を
持つことによって
選びとった生き方が

その人の人間性に
どのようにかもしだされるのか

その言葉を壇上で吐く
その言葉を書物に書く
その人の人格 品性をとおして
示してほしいと思う

礼拝うんぬん
献金うんぬん
毎日聖書を読むうんぬん
毎日お祈りするうんぬん

という説教的な言葉でだけではなく

それを言う人の
人としての人格 品性をとおして
示してほしいとものだと思う

言葉というのは
いくつの言語(げんご)が喋れるかよりも
何をその言葉によって話すかが
大切であるように

それを話している人物が
実際どのような人間であるか

どういう思惑でその言葉を
語っているのかということを

鋭く深く洞察し読みとることは
非常に大切なことだと思う

聖書という権威を
もちいられるのならば
なおさらである