日曜日教会にいった時
教会が毎月だしている
教会便りというものをもらい
そこにその教会の牧師先生の
こんなメッセージがのっていた
『 礼拝の後の交わりの時が
裁き合いの時でなく
‘’ 正しいこと‘’を言い合う時でもなく
皆が安心して
心を開くことの出来る時となるように
神様が喜ばれる本物の‘’交わり‘’と
なるように祈ります 』
交わりというのは
クリスチャン独特の教会用語で
一般的な語に
わかりやすく置き換えれば
交流という意味になるのだろうが
それでは意味が薄くなるらしく
交わりと呼ばれているらしい
クリスチャン同士の交わりというのは
ただの人と人との交流ではなく
イエスキリストの和解によって
罪が赦され
その赦しを経験した者同士が
互いを赦しあい
信頼しあい
互いを知るものとされること
それが交わりなのだという
わたしは
牧師先生のメッセージを読みながら
いまの教会が抱える問題について
切実な牧師先生の願いを
感じとりつつも
赦しあったり
お互いを知る( 理解する)
ものとされることは
ほんとうに
理想的で
素晴らしいとことだと思うが
信頼し合いという言葉には
ひっかかりを覚えてしまった
神の家族だからといって
クリスチャン同士というだけで
人と人が信頼しあえる深い関係性が
容易に構築さりえるだろうか
お互いを知る(理解する)といっても
信じるものは同じであっても
感受性が全く違うもの同士が
ほんとうのところで
理解しあえるとも思えない
ましてや
理解しあえない者同士が
真の信頼関係など築くことは
到底できないのではなかろうか
また信仰といっても
同じクリスチャンであっても
その信仰の音色は異なっていたりする
様々な癖のある人間が集まる
皆な仲良しこよしとは
いかないだろう集団において
それでも赦し合おうと
理解し合おうと努めることは
立派なことだと思うけれど
信頼というのは
また別の次元のことのように思われる
わたしはながいこと
その教会に縁あっていかせて頂き
教会を嫌だと思いながらも
未だに教会への深い愛着を
捨てきれないでいるが
そのながい教会との
関わりの中で
その教会において
本当に心の底から
信頼を寄せることの
できると思える人は
たった1人だけである
でも
わたしには
十分すぎるほどであると思っている
そのたった1人のひとの存在が
どんなにか
わたしの心を慰め
わたしの心を励まし
わたしの心を勇気づけて
くれていることだろうか
心の信頼は
多くの人とし合えるものではないし
多くの人とし合う必要もないし
不用意に求めあうものではない
不用意に求め
深く傷つき
心打ちのめされるよりは
‘’ たった1人‘’ いればいい
そして
‘’ たった1人のひと ‘’ に
なってあげれればいいと思う