あぁ あの列車がやって来る
あぁ あの音だ
屋根のない貨物列車だ
あぁ あの列車だ
あの列車で母さんは運ばれていった
あぁ 同じ列車がまたやって来る
今度は妹が運ばれていく
これは 黒人の歌うゴスペルです
これはどんな歌か
これだけでは全くわかりませんが
この短い詩の中に
彼らの悲しい物語のすべてがあります
彼らが 根こそぎ
アフリカから引き抜かれ
アメリカに連れてこられ
市場の競りにかけられ
競りおとされ
はじめにまず母さんが
貨車で運ばれていく
次の貨車では妹が運ばれていく
最後に自分がひとりぼっちとなって
声もなく泣いている
みんな礼拝で
この歌を歌いながら
みんな立ち上がって肩を揺すり
ステップを踏み始める
それが大きなうねりとなって
みんな泣きながら揺れている
その間 牧師は
Yes! Yes !と合いの手を入れるばかり
まるでコンダクターのように
会衆を激励している
牧師の説教とか
パイプオルガンの演奏とか
そういう儀礼的なものは一切ない
終わってみれば
礼拝そのものがシナリオのないドラマ
いわば リチュアルドラマそのもの
それが黒人教会の礼拝なのだそうです
‘’ 武士道‘’を書いた新渡戸稲造が
若い頃 アメリカに留学して
白人のプロテスタントの教会に
出席して失望し
大いに悩んでいた時
たまたまクエーカー教徒の集会を
知ったそうです
クエーカーというのは
17世紀頃 英国国教会に反抗して
生まれたプロテスタントの一派ですが
やがてルターやカルヴァンの教会の
あまりに家父長的で男性優位の
権威主義的体制に失望し
アメリカに渡って
独自の道を歩み始めた
キリスト教の宗派です
彼らは教会堂をもたず
普通の家に集まって
ひたすら黙想をする
牧師はいない
というより聖職者はおかない
だから説教もなければ
洗礼もなく
ミサつまり聖餐式もない
要するに儀礼らしきものは一切なし
聖日に家の集会に集まって
ただひたすら黙想をする
沈黙の祈りに徹する
心の‘’ 内なる光‘’との対話
ただそれだけなのです
祈りは 声にだすと
心と言葉との間に距離ができ
ともすれば偽善になる
だから ひたすら
魂の‘’内なる光‘’に傾聴し
それと対話する
そういう集会に
新渡戸稲造は出席し
初めてキリスト教を納得し
そして受け入れたのでした
彼は 随想録にその経験を
こう書いています
人生の究極の知は
‘’ 悲しみの門から入る‘’ことであると
そして彼自身 ‘’ 悲しみ ‘’を知る
ということを通して
キリストに出会ったのでした
‘’ あぁ あの列車がやって来る‘’
というゴスペルに流れているのは
どうしようもない深い悲しみです
ただ嘆き悲しむだけ
悲しみを深めていくしかない
それを牧師はしっかりと受けとめ
礼拝の最後に言うのです
‘’ 私達は決して忘れない
あなたが悲しんで苦しんで
戦い続けたことを
そのことを
私達は決して忘れない
決して忘れない ‘’
十字架も 犠牲も 贖罪も
声高には語られない
これが牧師のメッセージの
すべてなのです
聖書を読むと
‘’ 十字架につけられたキリスト‘’
と訳出されている箇所が
何ヵ所かありますが
正確な訳では
‘’ つけられた‘’という過去形ではなく
‘’つけられ給ひしままなる‘’
という現在完了形の継続だそうです
つまり イエスキリストが
十字架にかけられてしまった状態が
今もなお継続しているという意味です
十字架につけられ
給ひしままなるキリスト
生と死の狭間で生きているような
心が絶えず拷問に
かけられていたような
あの日々
もうわたしには
神様がみえなくなりました
どうして神様はわたしを
守ってくれなかったのですか?
その悲痛な心の叫びとともに
神様を思うだけで
心はもっと酷い状態になりました
わたしは あの時
わたしの心を守るために
わたしの命を守るために
神様をみないようにしたのです
そうするしかなかったのです
でも そんなわたしの心に
唯一 鮮やかにみえたものがありました
それは
十字架にかかった
イエスキリストの姿でした
‘’ エロイ エロイ ラマ サバクタニ
神様 どうしてわたしを
お見捨てになったのですか?‘’
十字架にかかって血を流し
うなだれ苦しんでいるキリストの姿
あぁ この方なら
わたしのこの苦しみを悲しみを
わかってくださる
壮絶な苦しみ
悲しみのなかで
心が捉えた光でした
わたしにとって
イエスキリストとは
わたしの罪の為に死んでくださった
贖罪のイエスキリストというよりも
悲しみ 苦しみを
今も十字架にかかった状態で
共にになってくださっている
イエスキリストなのです
この地上での
悲しみ 苦しみの歩みは
決して忘れられているものではなく
イエスキリストも
十字架につけられ給ひしまま
今も 一緒になって
悲しみ苦しんでくださっており
そんなイエスキリストと
共に歩む歩みの中に
イエスキリストの復活の ‘’ いのち‘’は
生き生きと輝きだし
わたしの‘’ いのち ‘’ も
生かされていくのだと
信じて生きてゆきたいのです
あなたがたには
世では苦難がある
しかし 勇気をだしなさい
わたしは既に世に勝っている
ヨハネ16 33