こんにちは。 

 

前回のブログを連日、たくさんの方に読んでいただいているようですごく驚いています。

 

ありがとうございます😊

 

明日、亡夫を亡くして8回目の命日を迎えます。 

 

今年は大きな決断をしたので

いつにも増して意識しています。 

 

 

同時に 

 

 

この日が来るのが珍しくいやだなと思う

自分がいるのも強く感じています。 

 

 

そうなる気持ちもわかっていることとはいえ 

寂しさはどことなく溢れてくるもんですね😊 

  

 

 

霊安堂に預けている遺骨を 

納骨したいのにできないと悩み続けて3年。 

 

先月の始め

 

「命日までにパパの遺骨を移すよ」  

 

子どもたちにようやく伝えることができました。 

 

 

たったこの一言を伝えるまでに1年。

 

 

子どもたちに 

また悲しい思いをさせたくない不安や 

嫌われたくない不安もあったので 

 

 

どんな返事が返ってくるのかと

すごく勇気がいりましたが 

  

 

「ええんちゃう?」 

「これでパートナーもできちゃうな」

「ママ、とうとう決めたんやな」 

 

 

これまで話し合ってきたプロセスがあったからなのか、葛藤を見守ってくれていたからなのか 


快く快諾してくれました。  

 

 

子どもたちが決断するまで待ってくれていた優しさと、温かい眼差しには泣きましたね(*´-`)

 


納骨したいと考え出した3年前は

 

人に話しただけなのに

ボロボロと泣きました。  

 

 

胸がね 

亡くした時と同じぐらいに 

痛かったんですよ。 



無理やん…。   



諦めグセが顔を出して 

絶望感でいっぱいでした。


  

それでも納骨に向けて 

 

本当はどうしたいのか 

なぜそうしたいのか 

 

自分への苛立ちが募った時は 

 

なんでそう思ってしまうのか  

 ありったけの想いを吐き出してきました。


消え入りそうな意欲に目を向けて 


今の自分ができることを 

できそうなぐらいにまでハードルを下げ

 

樹木葬のできる霊園を探して 

資料を取り寄せては

 


目を通すたびに 

 

「やっぱりむりだ〜(;ω;)」 

 

泣いては止まり 

また動いては泣いての繰り返し。

 


たま〜に

どうして私にこんな思いをさせるんや! 

 

そんな被害者意識全開の 

八つ当たりもしたり。笑 

 


特にこの1年は 

これまでにないほどに 

感情を丁寧に扱い 

  


恐れを恐れることに初めて向き合い始め

 


怒りの奥にある想いにも

ゆっくり時間をかけたのもあって

  


夏に納骨したい意欲を 

再度深掘りした時は

 

 

ただ会いに行ける場所なのではなく 

  


成人した子ども達が 

いずれ将来を共にしたい相手を紹介したい時や

 節目となる時に報告をしに行ける場所を 

 


心の中ではなく実際に作ってあげたいという 

  


3年前と変わらずあった想いに対して

笑顔で答えられるようになっていた自分がいました。

 

 

『好き』というものが

体感覚でよりわかるようになってきたおかげで 

 

 

亡夫を愛し続けなければいけない。 


そうやって頑なに課していた重たい足かせを

外すことができつつあるのもわかって

 

 

うん。もう出来る。 

  

大丈夫。  

  

やろう。

 

 

手続きに向けての準備が 

自然と始められるようになり

 

 

戸籍謄本を見ては何度も泣いてきたのに 

 

滅多に見ることがなくなった 

亡夫の名前を見ても 

懐かしむまでになれたのも、

 

 

着実に一歩一歩 

前に進んでる実感を感じられたのも大きな糧となり


 

何か1つに取り組もうとするたびに 


いいねいいねー。

やろうとしてるのがすごく素敵よ。 


労うという字の如く 

自分をいたわり 

ねぎらえたのも 

自信となりました。



すごくしんどかったのは 

愛したいのに愛せない寂しさにばかりに 

目を向けていたからであって  



どれだけ大好きだったかということを 

受け入れる抵抗がある私を

 

受け止めてあげる決心が 

ちょっびっと足りていなかった。 



******  

 

私は亡夫のことを深く愛してきた。

 

悲しみでいっぱいだった 

結婚生活の中にも 

 

喜び合い

幸せを感じられた時間があったと  

思い出せるようになれた。


 

愛していたけれど 

離婚したいとも思っていた。 

 

自分らしくいられなくて 

離れたいと思った。 

 

 

もうこれ以上 

自分を罰しなくてもいいんじゃない?

 

もし罪だと思うことがあったとしても 

もう許されてる。  

 

じゅうぶん、償ってきたよ。 

 

ぼちぼち3つめの選択肢を選んでもいいんじゃない?

 

 

大切な人をまた失ってしまうかもしれない怖さや

置いていかれる不安を持ったままでもいいから、 

人を好きだと想う気持ちを小さくしなくてもいい。

 

 

私のしあわせがあの人幸せでもある。 

夫と出会えたからこそ今の私がいる。  

 

 

人生を生きることを諦めなくてもいい。  

 


前に進みたがっている私がここにいる。 

それでいいじゃない。 

 

 

一歩踏み出したその先の景色がどんなに素敵なものなかを見せてあげたいんだもの。 

 

 

長女の仕事の都合で 

命日には間に合いませんでしたが 

 

できる私への揺るがない信頼は変わらずにあるので 

 

予定をすり合わせて納骨したいと思います。 

  



長いようであっという間だった8年。 

 

死にたい気持ちに駆られて 


子どもたちに 

また同じツラさを味わせてはいけないと

 

毎日ギリギリのところで踏ん張ってきた。 

 

 

置いて逝かれた悲しみに向き合い

死ぬほど泣き叫んで

何度も怒って 

怒りながら泣いて 

寂しさにもジッと耐えて 

 

どうしようもない 

胸の痛みと締めつけにも恐れて 

 

人を愛するのが恐くなって 

 

子どもたちから 

父親を奪ってしまった申し訳なさで 

優しさを受け取れなくて悩んだ。  


 


でも、 


ご飯を、また美味しいと思えるようになった。 

感情に寄り添えるようになった。 

友だちに気持ちを話せるようになれた。 


 

子どもたちの優しさも受け取れるようになった。 

人に頼れるようにもなった。 

情けないところを臆さず見せられるようにもなれた。甘えられるようにだってなれた。 


 

頑張りたいのに 

頑張れない気持ちにも優しくなれた。

 

自分の足で立てるようにもなれた。 

 

 

そして  

 

もう限界だと助けを求めた時に決めた 

 

もう一度笑えるようになりたいという望みが 

叶っている。 


毎日、小さな幸せに感謝し 

心から笑っている私がいる。 


想像だにしてなかった今があるのは 

今も支え続けてくださるメンターのおかげ。 


だから歩み続けてこれた。 


だからたくさんの仲間に出会えた。  



過去を振り返るのは 

時には大事なプロセス。 


このプロセスがあるから 

力むことなく前を向ける。 



素敵だね、わたし。