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フローベールの小説にはいかにも美しい挿絵のかけそうな場面がいくつもある。が、彼はいつも自作に挿絵を入れることをかたく拒んでいた。《文章は夢みさせるものだ》とフローベールは言っていた。そのとおりだ、文学は夢みさせる。映像はあまり夢みさせない。この『図書』四月号に田中邦夫さんという人が「盲人とイメージ」という短文を書いていられるのを同感して読んだ。盲人も《真赤な夕陽》とか《孫の瞳に雛宿る》と書く権利がある。文字によってつくられる想像力の世界、そのようなイメージの世界を、絵や映画やテレビが抹殺するわけにはいかない。
本というのは、やはり、文字が生命であり生命をつくる世界なのである。
生島遼一『好きな本、嫌いな本』より
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ばら色の雲が屋根の向こうに肩掛けのようなかたちでたなびいている。店では日除けを巻き上げにかかる頃おいだ。撒水車が路上の埃に一雨浴びせて通りすぎると、ふと一抹の涼気がカフェから洩れる臭いにまじらった。カフェのドアは開け放しで、銀器や金泥塗りのあいだに、高い鏡に映る花束が表から見える。人びとはゆっくり歩いている。歩道のまんなかで立ち話をする男たちの群れもあちこちにあった。行き交う女たちの目はけだるさをたたえ、炎暑の倦怠が女体をほてらすあの椿色に頬を染めている。膨大な何ものかが街に溢れ、家並を覆っていた。パリがこんなにも美しく思えたことはなかった。彼の目に未来はただ、いっぱいに恋をはらんだ果てしない歳月のつらなりと見えた。
フローベール「感情教育」(山田ジャク訳 河出文庫)から
Des nuages roses, en forme d'écharpe, s'allongeaient au-delà des toits ; on commençait à relever les tentes des boutiques ; des tombereaux d'arrosage versaient une pluie sur la poussière, et une fraîcheur inattendue se mêlait aux émanations des cafés, laissant voir par leurs portes ouvertes, entre des argenteries et des dorures, des fleurs en gerbes qui se miraient dans les hautes glaces. La foule marchait lentement. Il y avait des groupes d'hommes causant au milieu du trottoir ; et des femmes passaient, avec une mollesse dans les yeux et ce teint de camélia que donne aux chairs féminines la lassitude des grandes chaleurs. Quelque chose d'énorme s'épanchait, enveloppait les maisons. Jamais Paris ne lui avait semblé si beau. Il n'apercevait, dans l'avenir, qu'une interminable série d'années toutes pleines d'amour.
フローベールの小説にはいかにも美しい挿絵のかけそうな場面がいくつもある。が、彼はいつも自作に挿絵を入れることをかたく拒んでいた。《文章は夢みさせるものだ》とフローベールは言っていた。そのとおりだ、文学は夢みさせる。映像はあまり夢みさせない。この『図書』四月号に田中邦夫さんという人が「盲人とイメージ」という短文を書いていられるのを同感して読んだ。盲人も《真赤な夕陽》とか《孫の瞳に雛宿る》と書く権利がある。文字によってつくられる想像力の世界、そのようなイメージの世界を、絵や映画やテレビが抹殺するわけにはいかない。
本というのは、やはり、文字が生命であり生命をつくる世界なのである。
生島遼一『好きな本、嫌いな本』より
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ばら色の雲が屋根の向こうに肩掛けのようなかたちでたなびいている。店では日除けを巻き上げにかかる頃おいだ。撒水車が路上の埃に一雨浴びせて通りすぎると、ふと一抹の涼気がカフェから洩れる臭いにまじらった。カフェのドアは開け放しで、銀器や金泥塗りのあいだに、高い鏡に映る花束が表から見える。人びとはゆっくり歩いている。歩道のまんなかで立ち話をする男たちの群れもあちこちにあった。行き交う女たちの目はけだるさをたたえ、炎暑の倦怠が女体をほてらすあの椿色に頬を染めている。膨大な何ものかが街に溢れ、家並を覆っていた。パリがこんなにも美しく思えたことはなかった。彼の目に未来はただ、いっぱいに恋をはらんだ果てしない歳月のつらなりと見えた。
フローベール「感情教育」(山田ジャク訳 河出文庫)から
Des nuages roses, en forme d'écharpe, s'allongeaient au-delà des toits ; on commençait à relever les tentes des boutiques ; des tombereaux d'arrosage versaient une pluie sur la poussière, et une fraîcheur inattendue se mêlait aux émanations des cafés, laissant voir par leurs portes ouvertes, entre des argenteries et des dorures, des fleurs en gerbes qui se miraient dans les hautes glaces. La foule marchait lentement. Il y avait des groupes d'hommes causant au milieu du trottoir ; et des femmes passaient, avec une mollesse dans les yeux et ce teint de camélia que donne aux chairs féminines la lassitude des grandes chaleurs. Quelque chose d'énorme s'épanchait, enveloppait les maisons. Jamais Paris ne lui avait semblé si beau. Il n'apercevait, dans l'avenir, qu'une interminable série d'années toutes pleines d'amour.