6年前の話・・・。 | 子育てというボランティア

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浦安市に引っ越してきたばかりの約6年前の事。
その前に、不動産屋さんで、借家を案内されたんですが、
その時、不動産屋が言った話で
「浦安はこの通りの右か左で雰囲気が違うからこの左側だから大丈夫ですよ。
怖い人は住んでないと思いますよ。」
・・・そういわれた。
 
あれから6年、う~んその分け方は必ずしも正しくないなと今はわかる。
あの引っ越してきた当初、スーパーは実はマルエツしか知らなかった。
車で買い物に行って、あまりに物価が高くて、ぶっ飛んだ。
これ、ここで暮らせないかも・・・って思ったのを憶えてる。
 
それから、急に小学校でコンパスがいるといわれて、
どこで買えば良いのか?と学校に聞いたら、
当時富岡のパークスクエアに100円ショップが入っていて、
そこらで売ってると思いますよと言われ
そこに買いに行った。
 
それから、インターネットで調べて、ダイエーやイトーヨーカドーがあることを知り
その後、お向かいのおばさんに、食料品なら安いOKと言うお店があることを聞いた。
でも、娘が通っていた私立幼稚園でどこで買い物してますか?
・・・と聞いたら、新浦安の大丸ピーコックの野菜は新鮮で物が良いわ。
としか誰も教えてくれなかったのでほんとに食費のかかる我が家
破産するわと思ったのを憶えてる。
 
そう思えば、今は車でいろんなところに自分で買い物にいけるようになった。
西友も、葛西のヨーカドーも、さらに先のマルエイやドンキまでは何とか一人で車で行ける。
浦安に引っ越してきた当初は2年くらいまったく浦安からでる事が無かったけど
その後は東京都内は山手線とかで結構行ける様になった。
 
父が深川の生まれとはいえ、東京大空襲で住んでいた場所も何もわからないまま
父も祖母も他界してしまったので、今思うと父が生きていた時に
二人で東京見物に来たかったなと思った。
戦争で疎開したとはいえ遠い知り合いを頼って山陰に移り住んだ父。
その場所で、借家暮らしをして、獣医をしながら
ローンを組んでお家を建てた時の父の気持ちはどれだけだっただろうかと思う。
 
知らない土地で、一から自分の生活を立てていくことの難しさ。
でもこの6年頑張ってきたんだよな~。
だから、子ども達が皆進路が決まるまではここで頑張りたいな~と思っているのだけど。
 
昨年の震災以降、自分の中に、地震の恐怖や食べ物が買えなくなる恐怖や
子ども達の命が守れなかったらどうしようかとかいろんなことが
頭の中に浮かんで、どこにも外に出かけられなくなることがある。
ほんと、浦安市内から出るのが怖い時期があったんだよね。
そんなに被災と言うほどの問題は起きなかったのに
お風呂だって、毎日入れたしね。
 
でも、何が怖かったのだろうか?とか、何でみんな怖くないのかな~?とか
ふと思う事がある。
みんな日本の太平洋沿岸部に住んでいる人は全員死ぬ確率が高いって
毎日死に向かって歩いているんだとか、考えているのだろうか。
 
もしも、祖母のように6人の子供たちのうち3人が戦争や震災で亡くなっても
私は笑顔で暮らしていけるだろうか。
父は、山陰のど田舎に住んでいても
きっと心の安らぎだけが拠り所だったのかもしれない。
ただ、母の実家の京都を父は晩年とても愛していたけれど。
亡くなる1ヶ月前にもきていたし。
祖父のお墓も東京ではなく京都に建てた位だから。
 
末っ子の進路が決まるまで後10年。
ここでどうやって暮らしていこうかなとよく考える。
たかが10年、転勤族とかなら、何も考えずに
過ごしてしまえる年月かもしれない。
近所づきあいもまったく煩わされる事もないし
まあ、子どもの小学校のママたちとは距離を置いているので、
こちらがかかわらなければトラブルは無いだろうし
かかわるつもりも無い。
中学校は高校に上がったらハイさよなら~だし。
 
だけど、学生の時ほど、フランクに自由に明るく
人に接する事が出来ない私がいる。
ブログ上では、とても皆さん優しくしてくださるので、
人生の先輩もたくさんいて、同世代のママもいるし
ここにいる5年より、ブログの7年のやり取りの方が、濃いな~と
思うこのごろ。
どこに住んでいても、深く狭いお付き合い皆さんどうもありがとう。