東海の景は
富士によりて生き
富士は
雪によりて生く
『自然と人生』
凄くダイナミックな詩句だったので...
でも富士山はダイナミックだけど、
富士山が雪をかぶると本当に美しくて息を呑んでしまいますよね。
季節ごと、富士山も彩を変えるんですよね。
ワイルドな富士山が、雪をかぶると本当に火山に見えないほどだし
茜雲やご来光の時も本当に風光明媚だし
なんかすいません、まとまってませんね
それだけ、富士山が感情豊かに見える詩句だなと感じました
昨日の高村光太郎の詩句も、凄く味わいがあっていい詩句だと思ってます。
人が忘れかけた心を思い出させてくれるから。
私も、東京には空が無い気がしてどうしようもなかった。
それは今でもずっと変わっていない。
っていうよりも、私が変わらなきゃいけないのかもしれないっていうくらいに。
私はもう、本当にここ閉じてしまおうか、いらないんじゃないかって思いつめることが多々あります。
うちの感性なんて、どうでもいいんじゃないかって。
私みたいなのがいるから、皆迷惑してるんだって分かっているし。
分かっちゃいけないって思っていても、どこかで認めざるを得ないんだけど、でも、それを認めようとしない私のほうが、どうかしてるんだって分かっている。
そんな私の心に、高村光太郎の詩はとても響くような気がする。
時代が違っても、智恵子はそうやって言ってたんだって事。
少なくとも、私と似たようなことを考えている人間がいるってことです。
だからこそ教養は凄く私には大事なんだって教えてくれるし、これからもずっと教養は大切にしていきたい。これは本当に
今は教養をバカにしている人たちがいるかもしれません。私も、ペン習字を休んでいた時は、本当にスランプに陥っていました。だけど再開した今は、こんなにも教養は私の心を開いてくれるんだと思いました。ペン習字のお手本を見るだけでも、こんなに綺麗なお手本に癒されることは本当に自分でいられるってことです。先生が毎月月初めに出してくれる教室だよりも本当に綺麗で、癒されます。
現代人は本当に癒しを大切にしてほしいって思います。
私はペン習字は教養だけじゃなく、勉強でもあるけれど、心のふるさとだから、大事にしてます。勉強と、癒しと、両方です。
まぁこんなことここに書かなくてもいいって思われがちだけど、でもやっぱり大事なことだからいらないとは言えないから
やっぱり日本人が古来から受け継いできたものは絶やしちゃいけないと思うから
こんな若輩者の私に何が分かるんだ、って思っている人がいるかもしれないけど
私は高校年の時、選択授業で古典を取ってました。その先生に言われたこと。それは、高校を卒業なさっても、勉学に励んでください。その姿勢を忘れないように。ってこと。私は当時、この先生に、勉学って、専門学校行ったり学校いったりしなきゃいけないのかな
とか思ってびっくりしてしまいました
実は、先生はそういうことを言いたかったのではなく、日々勉強してください、っていうことを伝えたかったのだと思いました。机に噛り付いての勉強より、人から何か学ぶことがあるかもしれない、それを気に留めて、自分自身もしっかり学んでくださいってことかな。ってまたえらく能書きたれてしまったけど
やっぱり、自分にとって国語の勉強はそれだけ自分に役立つって分かっていたのかもしれません。だから今もずっとペン習字や、漢字など勉強したいし、教養を深めたいと思っているのかもしれません。
ただ長年かけて分かったこと。本当に勉強だけが大切なのか。私は、大変な欠陥に気づきました。私はあんまり人と話せないことに気づいてしまいました。これは本当に、欠陥だと思う。気づいたのなら治せっていうかもしれないけど、結局勉強ばかりしていたからなのかもしれない勉強はそんなに悪いことじゃないけれど、だからってそればかりしていても、出逢いにも恵まれないし、もっと大事な、社会勉強ができない。この時点できっと私はまだ大事なことに気づいていないのかもしれない。
でもきっと、また、再会出来る気がします。黒い影におびえてはいけない。おびえてはいけない。自分らしくゆっくり進むのが一番なんだと思います。