夫が病気になる何年も前に、こんな話をしたことがある。


「なんでもないときに見る桜と、来年自分が死ぬと分かった上で見る桜とでは、感じるものが違う。桜は何も変わらない。変わったのは、受け取る側の自分の意識だ」


それこそなんでもないとき、こんな話を普通に言える夫だった。

自分が生きている時間は有限だと、なんでもなく生きている今が当たり前ではなく、理不尽に急に死ぬ未来があったとしても、生きているというのはそういうものだと悟っている人だった。


だからなのか、病気が判明した後、夫は全く取り乱さず、泣く事も恨む事もなく、淡々と現状でやれる事を調べ上げ、一つ一つやりこなしていった。


夫は、病気になる前となった後で、桜の見え方は変わったのだろうか。私はその質問をする事は無かったので、答えは聞いていない。


ただ、私自身の桜の見え方は変わったのが良く分かる。


夫が病気になる前は、来年はまた別の桜を一緒に観に行こうと、無邪気に思い出を重ねようとするものだった。

夫の病気が見つかったあとは、来年も絶対に一緒に桜を見るぞ、という、決意を込めたものになった。


今年の桜は、今までに夫と一緒に見た桜を思い出すだけのフィルターになっていた。

今年の桜に対する感慨は何もない。

今の私が、余生を過ごしているだけという実感が湧き起こるが、致し方ない。