「悪気はなかったのよ」と言えば許されると思っている人は、認識を180度改めるべきだと思う。


夫は、「悪気のない人間」を嫌悪していた。

夫を長年苦しめていた両親こそ、所謂「悪気のない人間」だからだ。あの人たちは、子どもは親に従うべき、親が困っているなら助けるべき、金があるなら貸して当然、という三段論法を強いてきた。当然返ってきたことなどほとんどない。

しかし、「親なんだから」を当然と思っている。つまり悪気はない。本当に、全く悪いと思っていないのだ。


私は私で、「悪気はないんだから許してよ」と諭されると、モヤモヤしながらも受けざるを得ない、家族の一番下に生まれて育った。祖父母も両親も姉も、間違った事をしたり失敗しても「悪気はなかった」を主張して、謝罪をする姿など一度も見せなかった。


だから、夫がちょっとした事ですぐ謝ったり、私が気づいてなかった事すら、こんな事があって、それは自分の失敗だから謝るよと告げる人だったので、私は最初とても戸惑った。特に、私が気づいていないことはわざわざ言わないでそのままにしておいても良かったのに、と思った。


夫から言わせると、自分の誠意を示したり、信用を得るためには必要な事であり、当然の話だった。同じように「悪気なく」人に強いたり、嫌な思いをさせたにも関わらず謝らない家族がいたのに、夫は客観性が非常に強く、何が正しくて何がおかしいのかを見抜ける人だった。

夫は、長年私が何となく「おかしいな」と感じていたものの、自分では何がおかしいのか説明出来ず、ただただ積み上げてきたモヤモヤの塊を、一瞬で溶かしてバラバラにしてしまった。


「悪気がないから悪くない」は嘘。

悪気があろうと無かろうと、相手に嫌な思いをさせた時点で自分が悪い、と思うのが、社会性のある大人として当然の態度だと、夫は言った。


目から鱗がボロボロボロボロ溢れまくった、あの感覚は未だに忘れられない。


「悪気のない人間というのは、自分の言動の何がおかしいのかを顧みることがない。それどころか、悪意をもって捉える相手の方が悪いと思う始末だ。一番タチが悪い。

悪気がある人間の方が全然マシ。悪気があるってことは、何が悪いと分かって言っているからな。何が悪いか分からない悪気のない人間は、反省も改善もしない。する要素がない」


悪気のある人間のがマシとか、カルチャーショックでしかなかった。


「自分ならそんな風に感じないから、相手もそうだろうと思うのは間違っている。自分と相手が同じような感覚の持ち主だなんて、分かるわけがない。

だから、むしろ悪意をもって捉えるような相手だと常に想定して、誤解を与えない言動を考えてするべきだ。

何も考えずにただ思った事を話すなんて、子どもの言動だ。相手に負担を強いていることに気づかないのは大人としての意識が足りない」


夫との結婚生活は、私が無意識に刷り込まれていた間違った認識を矯正し、私という人間を作り直す生活でもあった。

客観的な言動をしろ、自分の言葉に責任を持てと、私は日々怒られた。

夫はわざと悪意のある解釈をして、「お前の言い方だとこう捉えられるがそれで良いのか?」と言い直しをさせられた。

思ったまま素直に言えばいいと思っていた私には、夫との会話は修行だった。帰宅して夫と会話するのが嫌になる日も多々あった。泣いて「疲れているのに、そんな考えられない」と会話を拒否したこともあった。


今思えば、これだけ主観の強い家庭で育ち、それを当然としている人間に、辛抱強く付き合ってくれたものだ。

夫は、私の考え方と話し方が変わったときが、真の自立であり、親離れだと言っていた。


今の私は、ちゃんと夫にとって、本当の奥さんになれただろうか。