夫が亡くなって、怒涛の感情と事務的な手続きの処理がひと段落してから、「思ったより長い余生になってしまったなあ」という心境になった。

子どもはいないし、仕事は頑張ってはいるが別段思い入れはない。趣味は料理だが、食べてくれる人がいなくなってしまったのでやる気もイマイチだ。

私は40代子無しの伴侶死別コミュニティに参加しているが、参加者の多くが同じ心境にあるのは間違いないようだ。ただ、私とかなり違うのは、

想い出の場所に辛くて行けない、パートナーが好きだった食べ物が食べられない、という話だった。

この先、楽しい思い出が上書きされることは一切ないと思っているのも、あとの人生が完全に余生だと認識しているのも、コミュニティの人たちと変わりはない。

ただ、いま生きていて、私が楽しいと思える事は、夫との想い出を辿っているときだ。だから、私はむしろ積極的に思い出す。

例えば、仕事の帰り道に少し寄り道して、夫が車椅子で通った公園をゆっくり通り過ぎるとき。

例えば、夜明けにゆっくりと染まっていく横浜港の景色を、2人で眺めていた場所に立って見ているとき。

例えば、ビルのラウンジでコーヒーを飲みながら、テーブルに置いた夫の写真に「また来ようね」と声をかけるとき。

当時のやり取りが、優しく暖かく思い出されるのだ。哀しみも当然あるが、それよりも夫と交わした会話の数々や、一緒食べたご飯や、隣で感じたそれぞれの季節を、ひたすら思い返していく。


収入が得られないなら、貯金を切り崩して生活しなければならない。同じように、楽しい想い出が得られない私は、楽しかった日々の想い出の貯金を切り崩して生きていくしかない。


大事なのは、想い出貯金は増えることはなくても、誰からも奪われないし、失わないという事だ。




あと半月したら、夫と最後に出かけたお花見の時期になる。

そのお出かけから10日後、夫は大量失血し、動けなくなった。深夜、私が夜勤中の出来事だった。


夫が息を引き取るまでの10日間の日々は、なるべく日記のように毎日綴っていければと思う。

当時の出来事は、別段何かに記録していたわけではない。私の記憶と、残された在宅医療や福祉サービスの領収書、余った薬などが手がかりだ。一年経って、ちゃんと書けるだろうか。

ほとんど寝られず、3日くらいお風呂も入れず、ゴミ出しに出ることすら出来ず、ただ必死になって夫の側にいた、たった10日間の出来事。

しんどくて辛いのに、多幸感に満ちていた、二度と経験出来ないあの日々の事を。