『活版印刷三日月堂 海からの手紙』 ほしおさなえ ポプラ文庫

 

『活版印刷三日月堂』シリーズの2作目。

冒頭、1作目とのつながりが分からず、少し戸惑った。

読み進めると、1作目で作ったものをきっかけに三日月堂と川越で暮らす人たちの繋がりが広がっていることが分かって、なんだか嬉しくなった。

 

「ちょうちょうの朗読会」

仕事のために始めた朗読講座に通い始めた小穂と、同じ朗読講座に通う三咲・遥海・愛菜が黒田先生の勧めで朗読会を行うことになった。小穂たちは、小穂の同僚が作った結婚式の案内状をきっかけに朗読会のプログラムを三日月堂に依頼する。

小穂は美咲たちと自分を比べて劣等感を抱いていたり、自分の理想とする読み方ができず苦しんでいた。しかし、悩んでいたのは自分だけでないことに気付くことができた。

 

プログラムの組版をしているシーンが印象的だ。弓子さんが自分に言い聞かせるように「できることだけをやってたんじゃ、ダメなんですよね。できることを広げていかないと。」と話すところは、なんとなく覚えがあった。できることだけやるのは楽だし、リスクも少ない。でもそれでは進めないし広がらない。何度も実感してきたことだ。いつのまにか、楽やリスクヘッジをしていることが多くなった。楽しそう、飛び込んでみよう、と思うことはあっても思って終わることがほとんどになっている。

今、どう広げていけるだろうか。広げられるものはあるのだろうか。

 

「あわゆきのあと」

なんとも切ないお話だと思っていた。三日月堂でつくった朗読会のプログラムを母親が持っていたことから始まる。生まれてすぐに亡くなってしまった姉の“あわゆき”の存在と今までずっと家にお骨があったこと、そして法事に合わせて納骨をすることを突然知らされた広太の話だ。

両親には突然という感覚はないだろうし、広太のことを考えてタイミングを見計らっていたから、むしろずっと考えていたのだろう。広太は、姉がいたということではなく、両親からずっと隠し事をされていた事実に対してもやもやしていた。悲しいや悔しいという言葉では表しきれない感情なのは感じ取れた。

あわゆきのファースト名刺をつくるシーンは、やっぱり目頭が熱くなった。広太は名刺に様々な紙の種類の中から、パルパーというふわっとした“雲の紙”を選んだ。調べてみたら読んで想像していたよりもふわっとした質感だけど、しっかりしている印象を受けた。そして、できた名刺を両親に渡すところは涙があふれた。父親が広太に言った「あれができるは広太だけだ。―あわゆきと同じように母さんから生まれたお前だけができること。」という言葉に今までのことが詰まっているように思えた。

 

自分は隠されていたわけではなく、広太と同じく小学生くらいのときに、自分が生まれてすぐ亡くなった祖父を認識した。そこで死がすこし身近になり、祖父と父を重ね、できるだけ一緒になにかした記憶をつくろうと、土日は出来るだけ友達との予定を入れないようにしていたことを思い出した。好きだからというより、記憶がないことを想像するのが怖かったのだとおもう。

 

家族とのシーンがとても良く感じただけに、住職さんが広太にかける言葉が事実だけどなんとも薄く感じてしまった。

 

「海からの手紙」

昌代は“あわゆき”のファースト名刺から三日月堂を知る。長く付き合っていて同居していた幸彦と別れ、一人暮らしをしていた。冒頭から昌代に共感できることが多かった。

そして、昌代を通して気付けたこともあった。昌代は人の心に鈍感で、自分の心にも鈍感だという。自分の場合は、人の心に過敏であると思う。でも自分の心や体には鈍感だった。特につらいと感じることに対しては鈍い。限界までいって、体に表れて初めて辛かったのかもと気付くことが多い。昌代は、幸彦が浮気をして相手を連れてきて、妊娠を告げられたとき、どう答えたらいいか、なぜ幸彦にそんなことを言われなければならないのか、と振り返っている。

自分も多分、昌代と同じ反応をすると思った。悲しさや怒りをぶつけるのではなく、ただ茫然と、でもどこか客観視してきっとこれが最善なのだろうと思うことを言うのだろう。

版画の工房を主催している今泉さんと妻の澄子さんの話を読んでから今泉さんの「飛べる人は飛ぶべきだ」という言葉に触れると、込められている想いが深くなったように感じた。

澄子さんの作品の意味を今泉さんに教えない内山先生が愛しく感じる。

昌代が豆本のために新たに制作する版画の貝を探していて、以前幸彦からもらったテンシノツバサが版画の道具をしまい込んでいた箱の底から出てくる。なんだか多くの意味というか、内容、ものを含んだ形であるように感じた。

テンシノツバサの版画を見ながら振り返るところにハッとした。昌代は、幸彦と別れたときに、今までのことが全部嘘に思っていたが、どれも全部ほんとうのことだと気づいた。「ちゃんとあって、消えることはない。そのあと変わっただけだ。」というところはドキッとした。相手ばかり変わっていったように見えていたが、自分も変わっていったのかもしれないと思ったからだ。

 

このお話では、昌代と弓子さん、今泉さんそれぞれが止まったところから進み始めている。それがはっきりと描かれていないところが好きだ。

 

「我らの西部劇」

「海からの手紙」で弓子さんと昌代さんが作った豆本が片山慎一と三日月堂をつなぐ。

奔放な父親を見ていた慎一は、父親を反面教師に堅実に働いてきた。そんな中、職場で心臓発作を起こし、仕事を続けられなくなってしまった。そのため、住んでいた社宅をでて、川越にある慎一の実家に引っ越すことになる。

 

終盤、息子の裕也と慎一、明美とあすかがぶつかるシーンがある。なんとなく揉めるんだろうなという流れは感じていたが、思っていたよりも激しく感じた。案の定、ドキドキして息苦しくなってしまった。いつもならそこで閉じてしまうが、読み進められた。今回、初めて、なぜ文章なのに映像で見るようにドキドキするのかと考えたが、自分の頭の中でドラマCDのように音声再生していることに気付いた。納得している自分と、自分で自分の首しめてた~と苦笑いしている自分がいた。

 

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 モノをつくることが好きだったことを思い出した。いつからか、そのモノに対して正解を求めるようになってから苦しくなっていったように思う。

 文字を書くことが好きなのは、書いたモノの美しさや正確さを褒めてもらえた経験が多いからだろう。褒めてもらえて、評価してもらえて初めて“正解だった”と自分のそれまでを認められたからかなと思う。かつての昌代のように、何者かになりたいと思った時期もあった。当時はそれが書道だったから打ち込んでいた。でも、上は途方もなく、それを知ってしまってからは、どれだけ誉め言葉をかけられても、素直に受け取れず、表面的なものだろうと思っていた。素直に受け取って、調子に乗って続けていたら違ったのだろうか…と思った。

 

 弓子さんは押しつけがましくないから、すっと染み込むのかなと感じている。「私はこれがいいと思う。だからあなたもそうしたほうがいい。」なんて言われた日には、いくらそれが自分も良いと感じていても真っ向から反対して別のことをするだろう。さら~っと受け流せるようになりたい。