髙橋大輔選手、2010年ブエノスアイレスの冬プロで艶やかな衣装を身にまとい登場する姿を見て思った。
「背中に薔薇しょって競技会に出てくる日本男児って…許されるのはこの人だけだよね…?」


そんなことを思い出したフェニックスの新衣装。

羽根がゴージャス、そして赤いセクシーリボンが巻きつけられた手は、冒頭の振付で翼に見えた。

黒い衣装に黒い髪が背徳感があって素敵。テカるパンツも似合ってる、脚が筋肉質だからかっこいい。
華麗な人である、人目を惹きつけるって凄い能力。


熱狂と興奮のプログラム、髙橋大輔の烈しさはこうも熱情を呼び覚ますのか。


フジTVのナビゲーター時代、確か試合地での知子ちゃんの新聞記事を紹介する時に、ぶるっぶるに手が震えていたことがあった。
「いやいやいや、最早これだけTVに出まくっておいて今だにそんな事ある?」と、わいは思った。

後にTVのお仕事苦手だったって言っていたので(まあ得意そうでは無かったけど)結局慣れることは無かったんやね。


そんなおぼこい髙橋大輔氏、表現の場になると全く別物であります。全身全霊かけて殺しにかかってきます。何者なんでしょう。

本番につよいとかとは別に、シェイリーンが言っていたね、自らをさらけ出すことが出来るって。

それもまた強さ。


緊張や惧れが、表現出来る悦びと自信に取って代わる時、魅惑のカリスマが現れる。



観衆を惹きつけて止まない美しいムーヴメントに散りばめられた個性的なアクセント。彼が頭を回すだけで、首元に手を這わすだけで、まさしく、ずっきゅ〜んとくるのであります。


音楽の可視化と称えられる彼の芸術性は、裏打ちされた確かな技術と冷静な客観性が土台にあるから独りよがりにならない。


元々の気質として、彼は指導者の示すものを全て吸収しようとするハングリーさを持っているように見える。乾いたスポンジが水を吸収する様に。

それを可能にするセンスと敏感で健康な体、惜しまぬ努力を尽くせる精神性、身体表現を極める人に必要不可欠な才能。


ハングリーであるためにはモチベーションが必須。そして今の髙橋大輔にはパフォーマーとして生きる覚悟と表現への貪欲な向上心がある。

一歩先へ。



天才の辿るプロットは、平均的な人間にはよく見えない。すんごいはみ出していくからね。
後から気付くのである、ああ、こんな手法があったなんて!ってね。


絵画界に於いて、キュビズムの発端となったピカソの『アビニヨンの娘たち』は、その時代に突然見せられてもイヤイヤおかしいでしょ顔⁈としか思えないだろうし、印象派を先導したモネの『印象、日の出』だって何だかボンヤリしとるの〜みたいな感じだろう、評判は悪かったはず。

感性を自由にできること自体が天賦の才。
奇をてらって興味を惹こうとするのは薄っぺらいけど、天才の内から溢れ出てきたサムシングは良くも悪くも意識の奥に残る。

前衛的、実験的、で終わるか本物の時代の革命となるかはその後の歴史が証明する。

アーティストを気取る人はアーティスティックな自分に酔いしれたいだけ。本物のアーティストは自己を解放する術のみに執心するのでは。



そして髙橋大輔は、今もの凄い振れ幅でスケート界を闊歩する。枷を外し自由に舞う。何をしたいか分からないと誰かに言われてもね。ジャンルを飛び越え無茶振りもあるよ、ファンは一喜一憂w。

でも彼は自分を高みには置かない。常にチャレンジャーであろうとし、真摯に純朴に一つ一つの事に取り組んでトレーニングをこなして行くだけなのだろう。
新しい目標を手に入れた彼は、地道な作業でも愉しむだろうし、ただ自分の内なるものを表現する為に技術の獲得を優先したのだ。


その先はコーチも振付師もファンも予想がつかない、髙橋大輔から発せられるサムシングエルスは芸術の分野なのだ。