福知山城は、別名臥龍城(がりゅうじょう)とも称されています。
臥龍城は、市街地を一望できる福知山盆地の、中央に突き出た丘領の先端地あって、その姿は龍が臥しているように見えることから臥龍城の別名を持ちます。
いろいろな場面で、明智光秀公と龍が描かれていることが多いです。
戦国BASARAや、舞台刀剣乱舞でも、美しい明智光秀公が登場し、こちらも見惚れてしまいます
そして、初代城主(明智光秀)の、家紋でもあります『ききょう』は、福知山市の花にもなっており、株数は少ないものの、パープルとホワイトのききょうが、お城🏯を彩ります
実際は。ブルー🩵のききょうが家紋です。
2人は「一番上の天守からも景色を眺めたいね」
私達が🚘をとめたparkingから、お城に行く為の橋。登り口にも優しそうな、龍のモザイクタイルが目に飛び込んできました
善政を敷いた名君。明智光秀公、この街では、謀反人とは異なる、一面に出会うことができます。
由良川と土師川の合流地点にある福知山城は、室町時代に小笠原長清の末裔の塩見頼勝が、①掻上城を築城したのがはじまり。その後、塩見頼勝は姓を横山に改名したのち、城主を子息である塩見信房に受け継ぎました。城の名前も②横山城となりました。
大正三年(1575年)織田信長から、丹波攻略を命じられた明智光秀は、丹波国人衆の大半を味方につけました。その後、光秀公は、天正七年(1579年)③八上城→④黒井城を落城します。そして相次ぎ⑤鬼ヶ城→②横山城を落城。
また、天正五年(1577年)には丹波攻略の拠点とする為に、⑥丹波亀山城を築城しています。
明智光秀公は、こうして、ついに丹波国を平定しました。織田信長から「その名誉は天下に比類なし」と高い評価と称賛を得て②横山城を福知山城🏯に改名し、丹波国を支配するのです。
しかし光秀は、天正十年(1582年)本能寺の変の後、山﨑の戦いで敗北し、暗殺されてしまうのでした。光秀が在城したのは3年間。その後は、城主が次々と変わりました。
戦国時代の歴史に想いを馳せながら…お城を眺めますと再建ではありますが優美で素晴らしいです。
こちらの天守閣は、1986年(昭和61年)11月市民の皆さんの力で再建を果たしたそうです
その名も瓦一枚運動と、瓦一枚分@3000を、一口とし、8500人以上の人々により。合計5億円余りを寄付されたそうです。
天守閣の瓦の裏には寄付をされた方の、名前が墨で書かれています。そんなエピソードを、お聞かせいただくと
福知山市の皆さんが、どれだけ地元を愛し、また現在でも、明智光秀公を慕われているのが伝わりました
訪れると、知らなかったその地域の歴史を肌で、感じられることが楽しみです。
余談ですが
NHK大河ドラマで「麒麟がくる」
お城を訪れた後に、ハスキーくんと観たのですが、なかなか面白かったですよ
明智光秀公のイメージがガラリと変わりました。
それでは幾つか、
福知山城の魅力をご紹介したいと思います
お城の本丸にある
豊磐の井戸
深さが50mもあり、城郭の本丸内の井戸としては、日本一の深さを誇ります。お城の側を流れる、由良川より深いそうです。そして、この井戸には抜け穴があり、二の丸にあった横穴に通じているという伝承もあるのだとか。
転用石とは、石臼・墓石・石仏・寺院で使われていた石🪨ですが、何故、転用石を用いたのだろう?
諸説あるようですが、戦国時代に入って、石垣や城が増加し石材不足だった。短期築城のため、大量の石が急遽必要になった為、このような転用石を用いたのだろう。今の時代では、絶対にないように思うので、とても驚きました。
こちらの建物は、福知山城の銅門脇(市役所の東側)にあった番所で、城内の建築物として、当時の面影を忍ばせるものです。大正時代のはじめに、天守台(小天守台)に移築され、更に昭和59年天守閣再建に伴い、この場所に移築されたものです。
敵を欺く、考えた仕掛けですよね
将棋タイトル戦の最高峰竜王戦を初めて、福知山城で開催されました。記念品や将棋士の色紙なども展示されていましたよ。
全国の将棋ファンの方には、かなり魅力的な場所なのかもしれません
興味深いものも
私は8位に1票
ハスキーくんは13位に1票なのだそうです。
逆賊のイメージを抱きがちですが、政治家としても優れており、税金を軽減して、とても愛妻家で、側室を持っても珍しくない時代に、持たなかったとか。思いやりに溢れる人柄を考えると。本能寺の変では、織田信長公を本当に襲撃したのか…主君を討つ人ではないのでは、と深く考える、わたしでした
(個人的な感想です)
福知山城のジオラマは縮尺1/20で展示してありました。外国人観光客の方が欲しいと言われそう
私達は2月に訪れたので、夜のライトアップのみされていたようですけれど、4月は、この時期しか見られない、桜と福知山城のコラボレーションが魅力的ですよね
そして…
天守閣の鯱瓦は何故お城に多いのでしょう
伝説の生きもの鯱は虎や龍のような頭を持ち。胴体は魚で体中にはトゲが生えています
江戸時代の書物(和漢三才図会)には、その生態について、説明されているようですが、獰猛な生き物で、口から火を吐くと思いきや、水を吐き火を消すというのです。
日本の建築では…当時は、木造建築が多いため火事を、恐れ。城郭や寺院などの、建物には火除けの守り神として、用いられているようです。
なかなかのビジュアルですが、海や川て出会うと大変!伝説でよかった
そして…
いちばん楽しみにしていた風景
遠く山並みが美しく城下町が見渡せます
酒呑童子で知られる大江山も、お天気に恵まれて綺麗に見えましたよ
ハスキーくんに
「どの辺りが鬼ヶ城かなぁ」
「あの辺りに。昔あったんじゃないかなぁ」
と、笑っていました。
そこから、ハスキーくんが語ってくれました。
天守閣は戦うお家。お殿様は普段は本丸御殿で過ごしていますから、有事以外入らなかったようです。
生涯一度も、天守に登ったことがない、お殿様もいたのだとか
扇子で仰ぎながら、城下を見渡しているイメージですけれど
そんな中、天守閣に住んでいたのは、安土城の城主織田信長公だけだったようですよ
2017年には続日本の100名城🏯にも選ばれた福知山城。
「京都大呂ガーデンテラス」からも、近くですから、キャンパーさんにも、オススメ
日付はブランクになっておりますが、鬼ヶ城の御城印もいただきました
鬼ヶ城の文字は。あの鬼滅の刃でも使用された、フォントのようです。力強さが伝わります。
朝の豪華なお散歩の後、お城の敷地内にある。
素敵な自動販売機にて、喉を潤した二人
それから、前回の記事をお読みいただいた方にしか、伝わらないかもしれませんけれど、私達がいただいた(クラフトビール)のラベルのお姫様細川ガラシャ(明智玉)は、明智光秀の三女でした。
それでは、
京都大呂ガーデンテラスに帰ります🚘🚘🚘