『わがひとに与ふる哀歌
太陽は美しく輝き
あるひは 太陽の美しく輝くことを希ひ
手をかたくくみあはせ
しづかに私たちは歩いて行つた
かく誘ふものの何であらうとも
私たちの
誘はるる清らかさを私は信ずる
無縁のひとはたとへ
鳥々は
草木の囁きは時をわかたずとするとも
いま私たちは聴く
私たちの意志の姿勢で
それらの無辺な広大の讚歌を
あゝ わがひと
輝くこの日光の中に忍びこんでゐる
音なき空虚を
歴然と見わくる目の発明の
何にならう如かない
切に希はれた太陽をして
殆ど死した湖の一面に遍照さするのに』
『鶯(一老人の詩)
(私の魂)といふことは言へない
その証拠を私は君に語らう
――幼かつた遠い昔 私の友が
或る深い山の
私は稀にその家を訪うた
すると 彼は山懐に向つて
奇妙に鋭い口笛を吹き鳴らし
きつと一羽の鶯を誘つた
そして忘れ難いその美しい鳴き声で
私をもてなすのが常であつた
然し まもなく彼は医学枚に入るために
山の家は見捨てられた
それからずつと――半世紀もの後に
私共は半白の人になつて
今は町医者の彼の診療所で
再会した
私はなほも覚えてゐた
あの鶯のことを彼に問うた
彼は微笑しながら
特別にはそれを思ひ出せないと答へた
それは多分
遠く消え去つた彼の幼時が
もつと多くの七面鳥や 蛇や 雀や
地虫や いろんな種類の家畜や
数へ切れない植物・気候のなかに
過ぎたからであつた
そしてあの鶯もまた
他のすべてと同じ程度に
多分 彼の日日であつたのだらう
しかも(私の魂)は記憶する
そして私さへ信じない一篇の詩が
私の唇にのぼつて来る
私はそれを君の老年のために
書きとめた』
伊東静雄『わがひとに与ふる哀歌』より
美しく、かつ、一癖ある詩集。抑圧された心の発露……と言えば良いのか、「強ひられる」「この上なく自由にされた気になつて」などの言葉から日頃の鬱屈と詩作による解放を感じます。ほとんどの詩が恐らく底にあるものをさらけて終るのが印象的でした。詩に登場するきらきらしたものを、斜めに影が射すような(皮肉や自嘲やそういった)視線で見ている。そんな気がしました。
今回作ったのは有明海苔の吸い物としゃっぱ真薯、青林檎と桜の和え物、有明海苔の佃煮、うぐいす菜を添えて。
『有明海の思ひ出』に登場する「しやつぱ」とは何だろうと思って調べたら、しやつぱ→しゃっぱ→シャコでした。