『「Zweisamkeit! ……」そんな独逸語が本当に何年ぶりかで私の口を衝いて出た。──孤独の淋しさとはちがう、が殆どそれと同種の、いわば差し向いの淋しさと云ったようなもの、そんなものだって此の人生にはあろうじゃあないか?
「そうだろう、ねえ、お前……」私は口の中でそんな事をつぶやくように言って見た。
「何あに?」と、ひょっとしたら妻が私に追いついて訊き返しはしないかしらと思った。しかし妻にはそれが聞えよう筈もなく、私の少しあとから黙ってついて来るだけだった。』

堀辰雄『晩夏』より
宿で本を読み、湖畔を散歩し、夫婦差し向かいで食事をする。そんなのんびりした様子が描かれています。序盤のアメリカン・ベエカリイでの売子と老外人のやり取りなどまるで洋画の世界で、登場する小物も洒落ている。
哀しい出来事は起こらないのに何故淋しげに感じるのかと思ったのですが、瀟洒なやり取りの陰で「失くしたボストン・バッグの代りに~」「何せ、疲れやすい私の事だから~」など、何か欠けたものがあることを示す言葉が所々に登場するからかな、と感じました(後者については終盤にもう少しだけ書かれています)。豊かな自然や洒落たものが描かれているのに地の文が基本的にネガティブというか。作中で読まれている『猶太びとの橅』も哀しい色を濃くしているように感じます。口の中に残るセロリの匂も、仔馬に毟りとられる草の花も。
逆に『私』が暗い思考になった時は意識して前向きになろうとしているふしがあるんですよね。
これは失い行くもののお話なのかな、と思ったのです。
ところで作中で「差し向かいの淋しさ」と表現されている「Zweisamkeit」ですが、確か本来は「一体感」「二人の生活」というような言葉だったと思うのですが、覚え違いでしょうか。「ein」だと一人っきりなので「孤独」と訳されるけど、「zwei」だと二人っきりということで幸福な意味になるのだったような。違ったらすみません(それだったら奥様もリアクションしにくかったかもしれないなと)。
今回作ったのは木目菓子(バウム・クウヘン)、セロリのピクルスと林檎のサラダ。レアチーズクリームを添えて。
バウム・クウヘン、作ろうと思えば作れるものなのですね。真ん丸じゃないのはご容赦ください。