『平田は臥床の上に立ッて帯を締めかけている。その帯の端に吉里は膝を投げかけ、平田の羽織を顔へ当てて伏し沈んでいる。平田は上を仰き眼を合り、後眥からは涙が頰へ線を画き、下唇は嚙まれ、上唇は戦えて、帯を引くだけの勇気もないのである。』
広津柳浪『今戸心中』より
講談のような語り口、哀愁を孕むしっとりとした文章。登場人物の行動一つ一つに気持ちが乗っていて、台詞が無くとも心情が伝わってきます。
そして独白ではそれがより雄弁になる印象です。
吉里の想いを描いたくだりでは恐ろしさと儚さに寒気がしました。切ない恋心、別れの嘆きを連ねる言葉の中に見え隠れする狂気。長い独白の中心辺りで一層色濃くなり、末に向かうごとまた少し薄れていくように感じました。緩急にぞわっとします。いや、でも人の心はこうだよなぁと。波がある。生きた心が描き出されている。
平田への恋心と、善吉からの真情と、自分と善吉や善吉の妻を重ねて思いが一方向に堂々巡りする場面なども実に繊細に描き込まれていて読み入ってしまいます。
平田が去った後俯伏す吉里の艶、善吉に見せる情、破滅に向かう哀愁。
お話の最後ですが、もう一つの草履は平田が置いていったもので、吉里は独り身を投げたのではないかと思っています。善吉と心中というのがどうもしっくり来なくて、それよりは平田への恋心と心中した、という方がらしい気がしたのです。本当のところは分かりませんけどね。
(心中と見せ掛けてひっそり生きているのではと思ったりもしたのですが、本格ミステリの読み過ぎですね)
今回作ったのは湯豆腐のみ。
このお話は涙酒のイメージが強かったので、それに作中登場する湯豆腐を合わせてみました。湯豆腐桶はお皿の上に載らなかったのでご愛敬。
一方のお猪口には日本酒を、もう一方のお猪口には塩を。塩を舐めながら日本酒を戴くのです。平田がいなくなった後のイメージ。
湯豆腐はシンプルに、塩を少し入れた昆布出汁でことこと温め、葱、鰹節、柚子を添えています。昆布はお鍋が沸く前に取り出します。ぐつぐつ煮立ててしまうと豆腐にスが入るので終始弱火で優しく温めます。
あと酒呑みなら湯豆腐の出汁と日本酒での出汁割りは外せませんよね。考案者は神。