『こいつのリュックサックのなかには、ワサビが八百本ちかくはいっておりました。乱暴に詰め込んであったので、葉や茎がつぶれ、根もたいてい折れていて、とても問屋に卸せる商品にはなりません。───みんな発育のいいワサビでした。もはや茎の頭に四弁の花をつけておりました。総状花序に排列した可憐きわまる乳白色の花なのです。』
井伏鱒二『ワサビ盗人』より
清澄きわまる渓谷の表情、食欲をそそるワサビの描写。本を開けば清々しい谷の空気が辺りに充ちるようです。
それらが魅力的であればある程盗人への残念な気持ちが増すようでした。
犯人の姿から可憐な花の回想に切り替わって終るのが、怒りより物悲しさを色濃くしているように思われたのです。
花ワサビとヤマメが同日に手に入りまして、このお話を思い出し、これは作るしかないと包丁を手にした次第です。
今回作ったのは板わさ、ワサビの素揚げ、ヤマメの塩焼き。手前のワサビはおろしてご飯にのせ、鰹節と醤油をかけて戴きます。おろしたてのワサビは鮮烈な辛みはもちろん、香りが良く立ち、甘みも強い。そのままで美味しいのです。
ワサビの素揚げは、スライスしたワサビをカリカリに揚げて、粗塩を振ったもの。辛味がより強く感じます。
あしらいは花ワサビと葉ワサビ。全部食べられます。ワサビは捨てるところが無い素敵な食材です。
ヤマメは程好く脂がのっていて美味しゅうございました。