石巻に行くには、気仙沼からしか行けないのか、R45が気仙沼市内に入ってから、渋滞になっていました。余震が続く中、トンネル内で車が止まるとすごく不安

内陸の役場勤務の友達から
「被災地行くなら、マスク、長靴、軍手必携、できればゴーグルも」
と言われました。

ゴーグル!?

気仙沼の道は薄黄色な砂煙?に包まれていました。

道に流れ込んだ泥は綺麗に道端に積み上げられ、車道に痕跡はないのだけれど、お天気で乾燥した幾分かの泥が車に巻き上げられ、空気中に舞っているようです。

マスクしてても喉がかさかさになります。

道路の両側に瓦礫と水が抜けて行って、抜け殻と化した家。

疲れた顔の叔父が
「体調悪いんだよ。夜不安で眠れなくてなぁ」とつぶやくように言っていました。

道の両脇に寄せられた瓦礫と車を見ただけで絶句していた私達ですが、

片付けをしなければならなかった叔父達が見たものは、もっと凄惨だったのだと思います。

一階を片付けなければならなかったにしろ、自宅にいる叔父は顔色が悪く、げっそりとしていました。

避難所で暮らす人達の疲れはもっとだと思います。

物資は必要なくらいは確保できているようです。

野球場にはたくさんの東京消防隊と自衛隊の車があり、気仙沼の奥の方の家まで自衛隊が走り、こまめに自衛隊員が声をかけて歩いていました。


一つの施設に三つ分の施設の人数で震災後、暮らしている婆ちゃんも
「天災だからね、天災だもの」と何度も繰り返し

ああ、気を張ってるんだなぁ

と切なくなりながらも、この人は気仙沼を離れないだろうとわかっているので

母も私も
「うちに行こう」
とは言い出せませんでした。

それでも名刺を婆ちゃんに渡し、職員さんが
「なくさないように預かってあげる」
とポケットに入れたのを確認し…

叔父はグループホームに任せるとは言うけれど、被害にあった二軒の建物を他に建て直すのかも不明

このまま、いつまでこの定員で暮らすのか、介護しきれるのかもわからない。

できるなら連れて帰りたいけど、気仙沼で生まれて、90歳まで気仙沼で生きてきた人が内陸で新生活を始める事がどんなに苦痛かもわかる

キーパーソンの叔父の意見を無視するわけにもいかず、

90歳の婆ちゃんに
「落ち着いたら帰ってくるべし」
とも言えず…

どうにもならなくなったら連絡くれるだろう…と思って、わざと名刺を職員さんに直接渡しませんでした。

内陸で暖かく、足を伸ばして過ごさせたい

でも婆ちゃんにとってベストなのは

「内陸」ではなく、「気仙沼」でなのは承知

90歳という年齢が選択肢を狭めます