2017 年11月 中皮腫診断から僅か6ヶ月の闘病後、61 歳という これから余生を楽しみにしていた年でこの世を去りました。
悪性胸膜中皮腫という自分には関係無いと思っていた希少癌の発覚から 病状と進行、医師の経験不足から来る判断の誤りなど、希少癌故の困難が数々有る闘病の実録を書きます。
夫は、2017 年2月の人間ドックで肺鬱血との診断。心臓の冠動脈ステントが入っている為、心不全かと循環器科診察を受けたが、心臓は問題無し。胸水だとの事で、肺のCT撮影は 異常無し(胸膜の所までは医師は見て無かったのだろう)。CEA が数年前から基準より少し高値が続いていたが、胆石症の為かと様子見してた矢先の事で、全身の癌探しの検査をするが、何処にも見つからず。不明癌で地方の成人病センターに紹介された。胸腔鏡でも診断つかず。せめて肺癌なら治療の選択肢多く、完治の可能性が有ると祈ってた。しかし、組織診断は「多分胸膜中皮腫だと思います。」との説明あり。『た・ぶ・ん⁉️ それ何❗。』若い医師。其から、唯一効果が有ると言われている抗がん剤治療を6回受けた。4回目治療後辺りから、左背部の激しい痛みに襲われ始め、非ステロイド抗炎症薬(NSAIDs) より強力な鎮痛剤処方を医師に頼むが、「まだ早い」と。「中皮腫は小さく為ってる」と医師は言う。本当か?。「先生、主人には、少しでも辛い思いをさせたくない。治らないのだから…。」と私が医師に顧願。夫は、誰にでも謙虚な人なので、医師に楯突けない。癌痛を我慢している夫に代わり、「痛みを取ってやって欲しい」と、必死の余り 喧嘩腰になる私。主治医の無理解と、夫婦であらかじめ相談してあった「緩和ケア外来を紹介して欲しい」と依頼するが、主治医が「鎮痛は私でも出来ます。」の返答。今は、癌と診断されたら 心身の緩和ケアは 同時進行で為されるもの。ましてや、癌の痛みが取れない鎮痛剤の処方で我慢する時代では無い。WHO が日本のモルヒネ処方の少なさに警鐘を鳴らした。それで、厚生労働省も癌の鎮痛剤処方の段階的基準を作成。しかし、医師の臨床経験と力量の差で、癌の痛みの度合いが計れず患者は 痛みに耐え続けてる現実思い知る。
結局、非麻薬性のオピオイド鎮痛薬しか処方されず、癌の痛みに耐え続けた。医師からの 【中皮腫の進行は変化無し】の説明とどんどん激しくなる癌痛との乖離に ただ戸惑い、更に 呼吸困難も加わる。私には、夫の 病状悪化がみるみる目に見えた。そして、中皮腫確定診断から6ヶ月経過してのCT検査の 結果説明に 愕然とした。なんと、「CT をよく見比べたら、どんどん進行してました。」とサラッと言い切る主治医。効果が無い抗がん剤治療に耐え続け、呼吸困難や耐えられない痛みも主治医には受け止めて貰えず、この時、やっと モルヒネの麻薬性鎮痛剤の処方に替わった。それが、亡くなる僅か5日前の出来事。「肺高血圧に為ってるので、在宅酸素療法の準備をするので酸素療法の練習準備が出来る迄、5日後入院予約します。」と医師。夫が、「辛いので、もっと早く入院させて欲しい」と、初めて 自分の願いを医師に頼んだ。其から、帰宅はしたが、夫は呼吸困難が強いらしく「呼吸が苦しくて辛いので、登山用の簡易酸素ボンベを買って来て欲しい。」と頼まれて買いに行く。其から、丸2日間、夫は息苦しくてたまらない上に、モルヒネの副作用の 吐き気で 食事が摂れず、薬量が少なく痛みも取れない。3日後の朝、やっと待ち兼ねた入院。夫は、酸素吸入し、酸欠でチアノーゼが出てたのが改善し、本来の顔色に戻り、ホッとした私。ところが、私だけ呼び出されて 医者から夫の病状の説明有り。「ご主人は、もう いつ亡くなってもおかしくない状態です。」と、 危篤状態の説明だった。何で⁉️ 主治医 曰く 「中皮腫が心臓を圧迫し心臓の動きが出来なく為っている。血液検査結果,播種性血管内凝固症候群DIC を起こしている。普通ならDIC の治療をしますが、しても仕方がないので治療はしません。と,勝手に言い切る医師。あと、最期ですが、蘇生処置はしません。肋骨が折れたり,体がひどく為りますから。」と家族の希望や思いは何も言えない状況だった。いや、夫の死期がもう目の前の事を、唐突に説明されても 現実を受け止められずに戸惑っていた。主治医の説明が、頭の上を素通りした。覚悟が現実になるには、不治の病名の告知から時間が短すぎた。あっけなさすぎる夫の最後で、まずい事に気が付いた。夫に、今、聞いて置かないといけない事柄が 沢山ある。夫も又、まだ、自分亡き後の事を考えている節がなかった。子供が居ず、義母が存命で、夫が、何も言わずに亡くなったら大変な事が起こる。思わず、まず、自分に降りかる今後の困難が頭をよぎってしまった。それで、可哀想だが、主治医から 夫に、死期が近いので、言い残したい事があれば言い残す様にと告知して貰った。夫も、「え!もうそんなですか?」と、体の状況の自覚が、それほどでも無く、ビックリした様子。やはり夫は、自分亡き後の事をまだ、何もしていなかった。いや!不治の病の現実と、自分亡き後の事に向き合うのにはまだ、時間が足りなかったのだ…。そう思った。
案の定、主治医には、積極的DIC 治療はして貰えず 最善の手は尽くしてはくれず、ヘパリン入りの点滴1000mL/day と、最期の苦痛緩和 モルヒネ入り鎮静剤持続注入。医師が「入院を早くして良かったですね。」と。医師の病状判断の甘さに唖然とした。夫が、入院を早く希望しなかったら、家でどうなってたか改めてゾッとした。医師の説明後、夫の近親者に連絡し、夫の母、姉妹、甥や姪 全て駆けつけてくれ、夫は、皆の顔が揃った事に「ワシは幸せ者やなあ~。」と涙ぐんだ。アスベストという 自分には何の罪の無い事が原因で、中皮腫になり、死ななければならない、怒りの矛先が無いという やりきれなさ、自分は、本当に中皮腫なのか?色んな思いから来る無念さの涙だったのだろう…。
この夜、スヤスヤ寝ていた夫が、突然、寝言の様に「もう楽にして 、 もう楽にして」と言葉を発し、駆けつけてくれたナースにレスキュドーズを続けて二回ワンショットされ、それでか そのまま目を見開き、天を凝視し、その後、抱き起こしていた私の腕の中で 夫の体の力か抜けて行くのを感じた。今、蘇生処置がして欲しい。もう一度だけ、目を開けてくれたら、辛くてお互い言えなかった「有り難う。さようなら」をいいたかった。
幼き頃からの夢だった錦鯉の養育の為、大きな池を自宅の庭に作り、水質浄化装置も整えて やっと、錦鯉を飼い始めた矢先の事で、ギターを奏でる事も再開したばかり。夢を叶え始めたばかりで、志し半ばの この世との別れは、さぞ心残りだっただろう。可哀想で、そして、錦鯉を眺めてる嬉しそうな 夫のあの笑顔が、今も目から離れない
 

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