学生時代東北に住み
当時は1番近くのコンビニまで45k峠を通って約1時間
今では考えられない
でもその分多くの仲間が出来
卒業して20年以上
今でも全国に多くの仲間がいる
自分の中では大きなターニングポイントになった
そんな思い出の地が震災でなくなった
あれから7年
いろいろ考える
そして年に1,2回足を向ける
忘れない為にも…
もちろん今回も寄る
道路もバイパスが出来便利になる
でもその分忘れられる場所も多い
仲間達が住んでいたアパートの跡はいまだ草っぱら
反対側は大きな防潮堤
津波で流され人が住んでいないこの場所に
こんな大きな防潮堤が必要なんだろうか?
去年来た時はまた復興の為の工事の人達もいたが
今は撤収していた
当時からあったスタンドの人と話すが
復興需要が無くなったら…
と
津波で流された場所にぽつんと立っていた
津波の写真が展示してあった場所
当時の様子の写真が沢山掲示してあったが・・・
ここも取り壊されるそうで中は空だった
その近くにひときわ目を引く建物
もしやここに移動?
なんて思って覗いてみるが…
違った
途中保育園小学校があった場所
移転先は丘の上
綺麗な園舎校舎
そこから海が防潮堤越しに見える
この地での保育ってどんなんだろう
バイパスを途中で降り
陸前高田
5階までのマンションの4階まで波がきている
まだ当時もまま残っている
奇跡の1本松
今はレプリカだけどね
当時のままの中学校
何処に行っても巨大な防潮堤
その裏には大きな空き地
大きな重機などを使って作った盛り土
もう7年経って他の場所に住んでいる人達が
これからここに人が住むのだろうか?
毎回走りやすくて常磐道をつかうけど
東京から200kちょっとしか離れていない場所に
人間が住めない地域がある
当時福島のある保育園の園長先生と話したことがある
津波は0からのスタート
でも私達は-からのスタート
この地で保育園を続けることの意味
必要性と重大さ
預けられる子ども達の未来
自分達はあと2~30年でいなくなるが
子ども達の未来はあと6~80年続く
誰が保証してくれるんだろう
また某大学の教授もどんぐり支援などを行っていて
いろんな話をした
そんな記憶が蘇る
そんな中気仙沼は活気がある
海の見えない生活は考えられない
と防潮堤を作らないと…
港周辺の開発も盛んだ
自治体の違いだろうな…
今回の関西の台風、北海道の地震
電気って大事だけど必要以上の明るさって?
節電で生活できるならそれでいいのでは?
なんていろいろ考えてしまう
復興とか難しいことじゃなく
遠いけど身体が動くうちに出来ることを
現地に行って美味しい物を食べて飲んで笑って
足を運ぶことの意味ってあるよね
また来年もこの地に来るよ










