台風一過の昨日は夏日の暑さであったが、今日は一転“秋冷の候”の趣、殊に雨が降り出した昼ごろからは気温もグッと下がり、「毛糸のカーデガンは?」「膝掛けも欲しいな」と、衣替仕度を済ませていない家内を困らせる事になった。若い頃と違い、寒さに耐性がなくなったというか、齢と共に気候の変化に敏感になっている、元々寒さに弱い方なので余計そう感じるのだろう。
齢と言えば、先日本屋をブラリ覘いた時につい題名につられて買った本を思い出した。「平均寿命105歳の世界がやって来る」、やたら長い題名の本だが、著者はアレックス・ザヴォロンコフというカナダ国籍のロシア人。生物老年学とか長寿研究の学者(?)で、本書の内容は一見学術的で難しそうだが、意外に気楽に読める。益々伸びる寿命で、超高齢化に向かう社会をどう考えるか、いろいろ考えさせられる本だ。
さて、本書の内容は兎も角、平均寿命105歳の世界がやって来ると言われても、さほどの驚きはない。昔、“金さん、銀さん”という、当時では珍しい100歳の双子姉妹がメディアに評判になったが、今では100歳超の老人は万単位でいる。その上最近の医学進歩を目の当りにすれば、「105歳の平均寿命も遅かれ早かれいずれは来る」とは、普通の見方だろう。但し、その時の人々の暮らしはどうなっているか、は恐らく誰も分らない。多分今の生活の延長線上でしか考えられないと思う。本当にそれでいいのだろうか。
先日の会合で、仲間が言っていた。我々同輩の間で、“きょういく”、“きょうよう”という言葉が話題になっているという。初めて聞いた言葉だが、“きょういく”とは「今日どこに行くか」であり、“きょうよう”とは「今日の用は何か」なのだ。日常暇を持て余している老人の姿が浮かぶ。今の社会システムからすれば、これを“無為”とは言えない。有為に過ごしたくとも社会の仕組みに拒まれることもあるのだから。とは言え何となく矛盾を感じてしまう。
いずれはやって来る平均寿命105歳の超超高齢化社会、若者も年寄りも、政界も経済界も、学者も芸術家も共に知恵を出し合わないと、暗い姥捨て山の世界に逆戻りしてしまう、急に冷え込んだ雨の日、ついつい暗くなってしまった。