yukiのブログ

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My life in NY Yay!!

Amebaでブログを始めよう!


みなさんお久しぶり!...といっても誰も俺のブログなんぞ読んでないと思うがwwwww

いやー実に一年ぶりに戻ってきたけど、やっぱり帰国してからは完全に放置だったねwww

mixiに1年半近くまえに載せたような理由(書くのめんどいから割愛w)で始めたこのブログ。

結局ほとんど使わなかったけど、今読み返すと恥ずかしいなああああ///////////
でもそのとき真剣に考えたことなんだろうから消さないでおこうと思います。




今回ブログを書こうと思ったのはある決心をしたから。
いくつかtwitterとかfbとかSNSあるけど、友達には読んでほしくなかった。でも紙に書いて机の奥に封印しちゃうのも嫌だった。
ってことで、誰も読者のいないこのブログに舞い戻ってきたわけですwww



ところで久しぶりにぴぐやってlocoさんという全然知らなかった人とお話しする機会がありまして、ぶたさんなんかとも知り合って早一年経つしSNSについて思うことはあるけれども、今回は違うこと書きたいので需要があればまたいつか書きます。とりま俺のつまらん話を聞いてくださったlocoさんありがとう。(これ読んでないと思うけどww)




で、もうめっちゃ眠くて頭ぐちゃぐちゃだから文章もめちゃくちゃだけど、今思ったことは今書かないと忘れちゃうから、決意の意味も込めて深夜のテンションで今書いてます。長文駄文あらかじめお詫びしておきます。
読む人いないと思うけど、もし読んでくださる方がいらっしゃるなら、やたらと煩雑な話が続きますので、理解できなくても結構ですのでなんとなくで流し読んでいただけたら幸いです。








前置きが長くなったけど、今回した決意というのはやっぱり法曹界を目指そうということ。
弁護士になるということ。
小学校の頃漠然とだけ思ってきた。いろんな可能性が他にもあったから、進路を変えようと思うこともあったけど、気が付いたら舞い戻って法学部で法律を学んでいた。法学部に入っても、本当に法律を一生続ける覚悟があるのかずっと自問自答してきたけど、ようやく一つの答えが出た。






弁護士になるために避けて通れない難関、司法試験、そしてその過程である法科大学院(ロースクール)。まずはそれについてざっとお話ししておきたいと思う。

ロースクールができて以来、司法試験の在り方は悪化の一途をたどっていると思う。本来ロースクールは、全然法律と関係ないことに携わってきた人たちを法律家にするために創られた。それによって法律の世界を一般の人々に近づけるのが目的だった。

ところが実際に法務省がやりだしたことは、合格者を減らし、法律を実務まで徹底的に習得した即戦力になる人材を法曹界にいれていくということ。
それにより、弁護士を夢見てロースクールに入った優秀な人たちの人生をいかにぶち壊してきたか・・・

詳しくはここには書かないが、ロースクールの悪影響は学部の教育、さらには法学会の将来そのものにまでに及んでいる。

日本弁護士連盟は自分の食い扶ちが大事、法務省の官僚はプライドが大事。彼らの自己中心的なやり方ははっきり言って日本の法律の世界において多大な害をなしていると言わざる負えない。大変な憤りと絶望感を抱いている。




そこでロースクールによる弊害の一例を挙げておきたい。それは、ロースクールの創設により解釈論をあまりに重視しすぎる風潮が作り出されたことだ。ロースクールが養成するのは、弁護士、検事、裁判官、つまりは法律の実務家である。雑な言い方をすれば、彼らが法律家になるために最低限必要なのは、法律の実務の知識であり、法律学の深遠な知恵ではない。つまりロースクールの創設により、法律教育においては実務偏重の傾向が生まれた。また法律学の世界においては解釈論重視で、いかに多くの司法試験合格者を出すかしか考えてないような傾向が生まれた。

確かに解釈論も重要だが、本当に法律にとって大切なのはなぜその法律が必要とされているかという社会的要請や、その起源、さらにはその倫理的背景こそ法律の基本ではないだろうか。
実定法の解釈論ばかりを重視し、法哲学や法社会学などの基礎法を軽んずるのは非常によくないことである。法律学にも存在していた哲学的な思考や社会学的な思考はどこへ行ってしまったのだろうか?
法律学において、そのような深遠な学問的な知恵は必要なはずなのに、解釈論だけを重視する傾向があるのは悲しいことだ。


もうすでにこの話についてこれてない人がほとんどだと思うが、それは当然である。なぜなら法律とは元々閉じた世界なのだ。その世界にいる人しか分からない。下手な解釈論などはみなさんの実生活と全く関わりがないだろうと思う。
しかし法律の社会で果たす役割は大きい。だからこそ法律学の在り方は社会や人々と密接につながろうと不断の努力をしなければならないと思う。
そしてその努力を続ける限り、法律学のもつ可能性は無限に広がり続けると思う。




しかしながら前述したとおり、ロースクールの進んでいる方向は全くもって僕の理想と逆である。法曹界に必要な人たちを排除し、表面的な法律の知識のカタマリみたいな人を採用しようという考え方だ。

そのような中で僕のような考え方の人が法律家を目指して司法試験を受けるのは至難の業だ。しかしながらそういう困難な状況だからこそあえて目指したいと思う。
これからの法曹界には頭でっかちな弁護士ばかりになっていくかもしれない。それは大変に危惧すべき状況であるが、だからこそ自分のような少数派が法曹界にいなければならないのだと思う。
もちろん弁護士になるまでの道のりは果てしなく遠いが、なった暁には法律界のリベラル化への一要因となれれば良いと思っている。


今までリスクばかりを考えその道に進むことを躊躇してきた。僕のような少数派が司法試験に通るのは、他の人より難しいだろう。しかし自分のようなやり方の人間が法律界にいなければならない、という思いに疑いはない。逆にもし僕のような人が多ければ、僕があえて法律界を目指す意味はないだろう。
誰もやらないことだから、自分しかやろうとしないことだから、人生をかけてでもどんな大きなリスクを背負ってでもやる意義があると思った。

出来ることなら生涯仕事は法律の世界に身を置きたい。単なる実務家としてではなく、法の下の正義の体現者のような法律家になりたい。昨今、そういうことを思う人が少ないのは悪い傾向だ。でも、だからこそ、自分が人生を賭けてでも目指す価値があるのだと思う。
それに向けて一切の努力を惜しまないことをここで決意したい。





最後に、アメリカの連邦最高裁の裁判官を務めたホームズ裁判官の言葉を紹介したい。
「法律の命とは、緻密な論理ではなかったのだ、法律とは経験だったのだ。」


法律を勉強してないと勘違いしてる人が多いが、法律学において試されるのは暗記力ではなく論理力である。いかに論理的に法律を解釈し、現実の問題に当てはめていくか、が重要なのである。法律の条文など覚えなくとも六法全書を開けば良いのだ。
かくして法律において論理が大切なのは自明のことなわけだが、論理のみが重視され、解釈論ばかりに傾倒していては、法律の神髄は見えてこない。命を持った生きた法律とは豊富な経験によって導き出されるのだ。
生命をもった法律による正義を実現することを片時も忘れないよう、彼の言葉を肝に銘じておきたい。





とりあえずここに来るまで色々な人に支えてもらった、影響を受けてきた。中でも両親には本当に心から感謝している。やっぱりアーレントが言ってた通り、他者との対話によって人間は成長していくんだと思う。だから今まで自分に関わってくれたすべての人によって自分は作られたし、感謝したい。
もちろんぴ具で出会った人たちにもね!みんなありがと!о(ж>▽<)y ☆
Have u ever worried about your laziness? i always do. im too lazy to do anything. i always think “later, ill surely do it. now im tired”then i always do anything late. i have too much time to waste. i know some people can punctually do anything as they want. i think its because of their habit. they have grown up with that habit. i envy such people. however, its no use that i complaint about my bad habit. one of my best friend told me one solution.

when i feel tired to do something, think about such activities' purposes. for example, studying in order to pass entrance exams of colleges. think about whether you really wanna enter that college. if you do so, you naturally start studying for it. if you dont so much, of course you cantstudy hard and you are not the person who should enter the college u aim for.

let's think about what i really want to do and figure out what you need to do in order to realize ur wishes. lets become what im meant to be or what i really want to be. dont think of excuses. lets stand with my own foots.
now i swear,“i really want to be able to speak english fluently ”
i cant do anything against this swear since now.

“if you are not able to do what you want, then you dont want it enough”
キリストの唱えた隣人愛は、自分自身を何より幸せにする方法であると同時に他人を幸せにすることでもあると思う。それこそが「幸せ」になる最大の秘訣だろう。ここで言う「幸せ」は、心穏やかに、自分の望むがままに過ごすことである。

しかし実際に自分が愛を持っているかどうかは疑わしくなることが多々ある。
そんな時は本当の意味で自分を愛しているかを確かめてみると良い。まがった自尊心から来るナルシスト的な自己愛ではない。自分の存在自体を包み込んで肯定し、自分に頼るということである。
そうすれば自分に余裕が生まれよう。余裕が生まれた分だけ他人に愛を分け与えられるであろう。


では、どうやったら自分を本当の意味で愛せるのだろうか?
それには自分は一人ではないと自覚することである。「世界」からの愛を感じることである。

この世の中を脆いと感じたことがある人はいるだろうか?ここで言う世界とは地球のことではない。いわば宇宙、いや神のことともいえるかもしれない。地球が壊れようがビックバンで宇宙が生まれようが、この世界は回っていく。この世界は細かい流れが集まって一つの大きな流れになっている。ものすごく壮大で、何事にも動ずることはない。
この世に神と呼ぶべきものが存在するならば、僕はこの世界自体を「神」と呼ぼう。「神」の中で僕は漂い流されている。「神」が導くところへ僕は行くしかない。「神」の前で僕は無力である。抗うことは苦しいだけである。
しかし特筆すべき点は、「神」とは僕自身でもあるということだ。いや、僕だけでは「神」になりえない。でも確実に僕はその一部である。そして僕と*外界のモノたち*とがつながったとき、僕は「神」と一体になるのだ。もう何も恐れるものなどない。「神」は必ず僕が幸せになるべきところへ連れてってくれる。なぜなら「神」は僕自身だから。そして「神」には絶対の信頼をおける。この大きな世界が流れていくことに何の疑いも持たいないのと同じように。
では、*外界の他モノたち*とつながるにはどうしたら良いだろうか?答えは一つである。彼らを愛するのだ。その時本当の意味で自分を愛せる。


自分を愛することのできないものは他者を愛することはできない。
他者を愛することのできないものは自分を愛することはできない。


「神」とは自分と*外界のモノたち*(他者)との調和である。
「神」が自分と他者からできていることを悟ったものは、世の中は自分の思い通りにならないことを知る。自分と他者とは表面的に全く別の個体であり意思を持つからだ。当然自分の思い通りに他者が動くとは限らない。
しかし、同時に他者を愛することができたものは、「神」の一部となる。この世の中の道理そのものが自分の意思となる。世界との「神」との調和である。

それこそがキリストの唱えた「愛」の目的であり、バラモン教における「梵我一如」の境地であり、スピノザの唱えた「神」の本質であり、夏目漱石の唱えた「則天去私」ではないだろうか。


僕の中には小さな宇宙がいつもまわっている。
それはこの世界の一部である。何事にも動じず大きくうねり流れていくこの「世界」。
それは、江戸時代から、弥生時代から、キリストが生まれた時から、恐竜が生まれた時から、地球が誕生した時から、ビックバンが起こる前から、まさにこの世界の始まりから・・・ずっと絶え間なく流れてきた一連の「大河」なのだ。
その流れに逆らうことは無意味だ。しかしその流れは自分の望むところ、行くべきところへ流れていく。なぜなら僕のなかにもその「大河」があるから。

自分の欲を満たすことは必ずしも「大河」を逆流することではない。その欲自体が「大河」の流れをつくるのだから。それは*他の小さな流れ*「他者」との調和の上でのみ成り立つというだけである。



天を信じて自分に期待す。

まずは自分を愛することから始めてみよう。それができないならば、まず自分と「神」とのつながりを感じよう。自分の中にも流れる「大河」の一部を感じよう。
それは自分を愛すること、他者を愛することにもなる。
それが俗人にとっての「悟り」だと思う。




ひどい文章だな・・・(笑
自分の中で溜まってたもの吐き出したら秩序がなくなったorz日本語べんきょうしないとなあ・・・
まあ誰も読まないからいいか(笑