ラストに判明する「意外な人物が犯人」、これこそが推理小説を読む醍醐味だ。普通に登場人物の1人が犯人でも、まさかって思う人物が犯人であったりすると、お〜、と思うが、それ以上に有り得ない意外な犯人もある。

 

「探偵役が犯人だった」「警察官が犯人だった」「被害者が犯人だった」。まあ、時にはそんな推理小説もある。確かに意外な犯人だ。


「重傷を負った人物が犯人だった」「子供が犯人だった」「老人が犯人だった」。普通は犯人とは考えにくい弱者でも犯人になりうる。


「動物が犯人だった」「ロボットが犯人だった」「自然現象が犯人だった」。このようなオチはたいてい面白くない。だいいち、犯人を罪に問えない。動物が犯人だった作品と言えば、古典とも言えるエドガー・ア・ランポーの有名な作品の中にもある。


「死体が犯人だった」「事件の記述者が犯人だった」「その場にいた全員が犯人だった」。ひねくり回して意外な犯人を作り出しても、読者が納得できるものでないと面白くない。

 

そこで、深水黎一郎の「最後のトリック」。上記のような意外な犯人のさらに上を行く意外な犯人とは誰なのだ。タイトルが「最後のトリック」だけに、今までお目にかかったことはない結末である。

犯人は、ずばり読者である。超絶技巧で、犯人を読者、それもこの作品を読んだ全ての読者にしてしまうと言う力技だ。ただの荒唐無稽なミステリーではない。解説をミステリー界の大御所とも言える島田荘司が書いていることもあり、大言壮語では絶対ない。

 

とは言え、ネタバレは書かないが、読者が犯人、それも殺人犯だ。つまり、今読み終えたばかりの私も犯人なのだが、動機は何だ。私には彼を殺したい動機はないぞ。さらに人を殺しても私は殺人犯として罪を問われない。

 

さらに文庫本で読んだミステリーだが、被害者はすでに6年前に死んでいる(この本の発刊日は2015年2月)。6年後にこの本を読んだ読者が殺人犯とは有り得ないだろう。

 

とまあ、あげつらえば齟齬や論理の破綻はまだありそうだが、いかにして読者を犯人にしたてあげるのか。読んでみる価値はあるだろう。