
カフカの生家に飾られたカフカのレリーフです。学生時代に読んだカフカを約40年近くぶりに読みかえしました。ついでにカフカに関するエッセイや阿部公房まで読み返しました。若かりし頃がよみがえってまいりました。カフカはおそらく母方の血を色濃く受け継ぎ、たたき上げの中小企業のおやじとは基本的に合わなかったのだろうと思います。貧しいユダヤ人の家に生まれたお父さんは、艱難辛苦を乗り越えプラハでその事業を大きくしていきます。その都度家を変え引っ越しをします。後は名誉を息子に託します。超エリートコースの大学進学をカフカはしますが、お父さんはESTABLISHMENTの医者か弁護士になることを期待します。息子は金にならない小説を書いており(お父さんは息子が何をしているのかわからなかったのだと思いますが・・・)、当然ぶつかり話としては理解できます。

旧市街広場に立つ家ですがこの並びのいくつかはカフカが住んだ家です。

旧市役所の数軒隔ててカフカ(の一家)が住んだ家です。この家一分の家と称され漆喰でだまし絵などが施されています。

プラハ城内にある黄金の小道のカフカが小説を書いた家です(今はお土産屋さんです)。カフカは当時保険関係の仕事についており夕方家族が住む家からここにむかい明け方また家に帰る生活を何年もくりかえしました。睡眠時間は短かったと思います。お母さんがカフカが家を出る時弁当を持たせたそうです。母の愛はつくづくすごい。親父と息子はいつの時代もダメかな・・・。カフカは今の時代でこそ有名ですが当時はほとんど無名。いくつか作品を発表していますが、無名。でもトーマスマンには当時その才能を認められていたそうです。当時のプラハの人には全くの無名で若くして結核で亡くなった一般PEOPLEでした。

話変わって68年のプラハの春の現場、ヴァーツラフ広場です。いくつか写真を見ましたがチェコの人々がソ連の戦車に轢き殺されるまさにその現場がここです。約50年前にそんなことが起きたのですがまるで遠い昔のようです。まさに状況としてはウクライナ問題と一緒で国境を接するヨーロッパの人は国防意識や愛国心そんな気持ちが日本人以上に強いだろうと思いました。

この日は日曜日で縁日の露店が結構出ていました。一軒一軒一見して回るのも結構楽しかったです(特にわたくしの家内には)。

シャボン玉屋(風船屋)さんで子供が遊んでいました。小春日和の気持ちのいい日曜日にのどかな光景が広がっていました。そこにはプラハの春の悪夢もヤン・フスをはじめとする宗教革命家の悲劇もゲットーの苦しみもみじんも感じさせるもののない平和なプラハでした。この旅はカフカしか期待していませんでしたが、プラハの素晴らしさを思い知った旅となりました。