アメリカが日本への原爆投下を決定した「本当の理由」のおぞましい狂気配信
■ポツダム会談をソ連占領地で開催した意味
ヤルタ会談からまもない1945年4月、アメリカのルーズベルトが急死し、後を継いでトルーマンが大統領に就任した。 ルーズベルトが死去したことを知ったスターリンはショックを受け、大きく落胆したと言われている。 ルーズベルトの死からまもない5月はじめにベルリンが陥落してまもなくドイツ帝国は崩壊し、7月17日からベルリン南西のポツダムでチャーチル、スターリン、トルーマンが集まって会談が開かれた。これが日本に降伏を呼びかけたポツダム宣言で知られるポツダム会談だ。 ポツダムはソ連占領地域にあり、そこで会議を開くことになったのはスターリンの強い主張によるものだった。そのことにも、ドイツを破ったのが実質的にアメリカではなくソ連だったことが示されている。会談は8月2日まで続いたが、この会談の冒頭でスターリンがトルーマンに、ヤルタ会談でルーズベルトからなされた対日参戦の要請に応じると正式に伝えている。そしてこの会談の最中に、イギリスの総選挙で保守党が敗れたためチャーチルが帰国し、イギリス代表は労働党のアトリー新首相に交代した。ところが、死去したルーズベルトに代わって会談に出席したトルーマンは、ルーズベルトとは考えが違っていた。それは、この会談でトルーマンの補佐官を務めた欧州連合軍最高司令官のアイゼンハワー(後のアメリカ大統領)が、ソ連の対日参戦に反対するよう助言していたためだった。東ヨーロッパでドイツ軍を破ったソ連軍の強大さを見せつけられたアイゼンハワーは、もしソ連に満州と朝鮮半島の日本軍を攻撃させれば、そのまま極東がソ連に占領されてしまうという危機感を抱いていたのだ。だがアイゼンハワーの助言は手遅れだった。ソ連軍はすでに攻撃準備を完了していたのだ。一方イギリス代表団は、ポーランド問題をはじめ東ヨーロッパの国境画定などさまざまな戦後処理についてスターリンと激しく衝突し、スターリンは軍事力を背景に強硬な主張をくり返した。そこでアイゼンハワーはトルーマンに、「ソ連が参戦する前に我々が日本に勝利しなければ、極東からソ連軍を排除できなくなる」とアドバイスした。アイゼンハワーの頭に、ドイツの東半分をソ連に占領されてしまったことがあったのは間違いない。こうしてトルーマンは、アメリカの多くの軍司令官や科学者が反対したにもかかわらず、バーンズ国務長官の強い主張を入れて日本への原爆投下を決定した。原爆投下には、日本に対する処罰に加え、スターリンに対する「日本まで南下するな。我々はこれを持っているぞ」という警告のメッセージが込められていたと考えることができる。なお、アメリカの多くの科学者が、「終戦を早めるために原爆の威力を見せつけるのなら、日本に投下しなくても、どこか広々としたところで爆発させて日本の指導者たちに見せればよい」と主張したと言われている。こうしてポツダム会談が8月2日に終わると、4日後の8月6日に広島に原爆が投下され、その2日後の8月8日、ドイツが崩壊してからきっかり3ヵ月後に、ソ連はルーズベルトとの合意どおり日本に宣戦布告を行う。そして翌9日にはソ連軍が満州に侵攻を開始し、その同じ日にアメリカは2つ目の原爆を長崎に投下した。このあわただしい動きを見ても、米ソのせめぎ合いが感じられる。ルーズベルトとスターリンの間にはなにか通じ合うものがあったが、トルーマンとスターリンは明らかに競い合った。スターリンはアメリカが原爆を投下したことを知って、「なんという残虐なことをするのだ」と言ったという。だがそのスターリン自身は、2000万人以上もの自国民を粛清や戦争で死なせているのだ。これが狂気でなくてなんだろう。----------この続きは、本記事の抜粋元『地政学と冷戦で読み解く戦後世界史』でお読みいただけます! ----------
玉置 悟(翻訳家 ノンフィクション作家)