太平洋クラブライオンズ ユニフォームギャラリーシリーズ#7
皆さんのお陰で人気記事ランキングにも顔を出すようになり、自分でも驚きを隠せません、『プロ野球ユニフォームギャラリー』。第7回目は太平洋クラブライオンズ「豪快さと脆さが同居していた山賊打線」を取り上げます。
太平洋クラブライオンズはわずか4シーズンと球史でも短かったのですが、残したインパクトは絶大でした。1973年前期シーズン序盤に快進撃を見せたことで赤のビジター用ユニフォームになぞらえて「赤い旋風」と呼ばれた時期、1975年に移籍加入してきたベテランたちが打棒を奮った「山賊打線」、1976年に上着の前面に胸番号だけの「アメフト型ユニフォーム」など今でも伝説になっているであろう話題がありました。今回は「山賊打線」に光を当てたいと思います。
1974年オフ、西鉄ライオンズ時代から5シーズン指揮していた稲尾和久監督が辞任し、江藤慎一氏が選手兼任監督として就任しました。江藤監督は大幅な刷新を行い、近鉄バファローズから土井正博選手、日本ハムファイターズから白仁天選手、広島東洋カープから西沢正次選手、さらに同じく広島東洋カープからテスト入団で国貞泰汎選手を獲得しました。打線の中軸をトレードで獲得したベテラン選手が担い、豪放磊落な江藤慎一の人柄も相まって「山賊打線」と呼ばれました。打ちに打ちまくって大勝したかと思えば、あっさりと凡打を繰り返し完封負けすることもある。大味な野球を展開しました。チーム打率はリーグ1位、チーム本塁打数135本はリーグ2位を記録するなどチーム打撃の成績は上位にありました。
主なスタメン選手を見ていくと、規定打席入りした選手では一番打者のドン・ビュフォード選手が.276、21本塁打、67打点、12盗塁を記録、打数507はリーグ1位。二番打者の基満男選手が.282、7本塁打、打点を記録、27犠打はリーグ1位、三番打者のマティ・アルー選手が.282、8本塁打、45打点を記録、二塁打32はリーグ1位。四番打者が土井正博選手は.260、34本塁打、82打点を記録、本塁打王を獲得。五番打者が白仁天選手は.319、16本塁打、53打点、13盗塁を記録、首位打者とベストナインを獲得。七番打者の竹之内雅史選手が.267、19本塁打、55打点を記録、死球17はリーグ1位。規定打席外の選手では六番打者の江藤慎一選手は.228、8本塁打、36打点を記録八番打者の楠城徹選手は117試合出場で.246、2本塁打、31打点、18盗塁を記録、チーム最多盗塁と盗塁阻止率.368を記録。九番打者の梅田邦三選手は.167、0本塁打、8打点を記録しました。
しかし、投手陣はチーム防御率3.73とリーグ5位、530得点に対し563失点(リーグ5位)と得点が失点を上回りました。東尾修選手が23勝15敗7セーブ、防御率2.38で最多勝、投球回数317回2/3と154奪三振はリーグ最多(当時は表彰対象外)。木原義隆投手が10勝9敗、防御率2.76はリーグ7位と一部の選手は頑張っていたものの、前年まで活躍していた加藤初選手、石井茂雄選手、田中章選手、三浦清弘選手が大幅に成績を落としました。
当初、球団は江藤慎一監督を留任を決めたものの、MLB元監督のレオ・ドローチャー氏を招聘するために江藤監督を兼任コーチを要請し、江藤監督はこれを固辞して退団しました。江藤監督の退団で「山賊打線」は解体しました。1975年シーズンは130試合58勝62敗4引き分けで通年で3位とAクラスになりましたが、その後は最下位と5位を繰り返すことになりました。短かったからこそ残したインパクトは絶大だったのかなと思います。
また、こちらにこのユニフォームを語った、『太平洋クラブライオンズのユニフォームを語る』を載せておきます。こちらも御覧くださいませ。












