【われ-なんじ】 2024.06.02.Sun.
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先ず
根源語《われ-なんじ》は
全存在をもってのみ語ることができるが、
根源語《われ-それ》は
けっして全存在をもって語ることができない
と言われる。
また 《なんじ》を語る人は
対象といったようなものを持たないのに対し
《それ》を語る人は《あるもの》を経験すると言われる。
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このマルティン・ブーバーの「根源語」という概念の存在を知った時、
このことを自分の感覚として理解したく
「他者」と対話することを
意図的に注力しようと思った。
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対象物化した世界と
そうではない世界の差異を
私はまだハッキリとは認識できていない。
それゆえに言語化できるにはまだまだ至らない。
ただ、
以前にも投稿したような
私が好む
「敬意の質」が、対象物化したものには
存在し得ないことを感覚的に知っている。
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ひとりで籠って学ぶ時間は好きだ。
だけど、
自分のテリトリー内外問わず
色んな人と対話をする必要があると思った。
友人との定期的なやり取りを再開するべく連絡を取った。
そして
色んな幅広い話を交わすことができる友人と
会う頻度を増やしてもらった。
(いつも大津の美味しいをありがとう♡)
そして昨日、知人が営んでいるバーへ
ひとりで行ってみた。
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初めて対峙する相手を前に
私が「違和感のある衣服を纏おうとする」のか
今の私でどんな風に対話ができるのか
そこを見たかったという思いがあった。
対峙とは、
闘うでもなく
抗うでもなく
繕うでもなく
自由にというわけでもない。
闘いたくなる衝動が出てくるのか
抗いたくなるならどこにそれは出るのか
繕いたくなる部分は何なのか
自由さを感じるならそれはどこに対してなのか
対峙は相手に対してではなく
他者を前にしたときに出てくる私に対しての行為だ。
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そんなことをずっと考えているのか?というと
そうではない。
それらは出てくるならば
瞬時に現れ消えていくものであって
そこにあり続けるわけではないからだ。
ひとりでお店に伺うことに
全く躊躇いがなかったわけではないが、
店主への興味と
そこにいる私に対しての興味が上回った。
自身から紡ぎ出す言葉を大事にしている印象をもっていた店主に対し
私はどのような私としてそこにあれるのか。
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こんな風に書くと
ものすごく意気込んで
乗り込んだ印象になるのかもしれないが
そういうわけではない。
話をする機会があるかどうかは
行ってみないとわからないし
どちらでもいい、と思って伺った。
なぜならば
美味しい料理がそこにあることは
確定しているから。
そこでの料理を味わえるのであれば
それだけでも良いと思った。
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結果、
4時間半のその場での滞在は
とてもとても良い空間を感じることができた。
私の背後空間からは
男性達の
美しい敬意の溢れた心地の良い会話が聴こえ
ひとりで訪れる常連さんと
店主とのやりとりは
関係性を構築するまでの想像を豊かに浮かびあがらせる。
それらは
ソフトドリンクで酔ってしまえるほどの
最高の「あて」になっていた。
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そして、どちらでも良いと期待していた
店主とのやりとりは
存分に堪能する時間を頂けた。
前提として
私は「客」であり
初めての対話相手に、店主は
様子をみながらお話をしてくれていたようには思う。
でも、
私は、その場で浮かぶ聞きたいことを
遠回しに聞くわけではなく
それでいて前述したような
引っかかりを感じることはなく
とはいえ
その関係性の中で適切だと思う言葉を
その時の温度感が疎外されないように選び
会話ができたように感じた。
何より、
店主がどんな風に前を見ているのか
それらの話はどれも興味深く面白かった。
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また店主は
この最近の中で
私のことを考える時間があったと教えてくれた。
私も、この数日この時間を持てるかどうか
を考えていたのだ。
そんな風にお互いの中で
この時間を持つ了承を
それぞれにできていたことが
面白いと感じた。
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《われ-それ》で始まるもの
《われ-なんじ》で始まるもの
言語化できない
それらの差異を感じることができた
空間と時間に
改めて感謝している。
お料理は一品一品隅々まで
美味しかったです。
ありがとうございました!
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「空間認識」の学びの
途中シェアを
stand . fm のメンバーシップにて行なっています。
月額1,000円
いくつか無料で聴ける放送も交えていますので
是非🫶
お待ちしております^^
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