子どもを通じてのトラブルが起きた。

なぜだろう。

なぜまたこういう事象を私に表すのだろう。
私はなぜこの事象を表したのだろう。

もう、大きな気づきを得て、
解消したと思っていた。



昨日、対処に当たらざるを得なかったときには、
多分、先日の気づきのおかげで、

対処に愛を持って当たれたと感じていた。


じゃあ、なぜ?
こんなことを見せる?
まだ、何かあるのか??


また探ってみたけど、


私は芯を取ったはず。
そこを探すのはもういいよ、

っていう感覚は間違ってなかったはず。


じゃあ何?

私の中の、正しさで推し進めようとするところ?

と出てきた。



論破してしまうことは大いにある。

正しさって何だろう。

正しさなんてない。

じゃあ、意見をいうことは
何になるんだろう。




思い出したのは、

8年前にとある研修を受けた時に
先生から言われた言葉。

「みきさん、それは驕り!」



その当時、
驕りと自信の違いがわからなくて悩んだ。

自信を持って行動することと、
驕りからの行動、何が違うんだろう、と。



今ハッキリと言えるのは、
生み出されるものだけど、
出どころがちがう。



驕り 他人との比較

自信 自分との比較



他人からの比較によって出てくるのは、驕りであり、慢心にもなる。



まだまだしばらく探ってみる。




誰かに意地悪なことをするとき、
そのとき、どんな顔をしてるだろうか。

きっと、楽しそうにしていたはずだ。



私も小学生のころ、
意地悪な計画をして実行したことがある。

意地悪の相手は、
私に対して意地悪をしてきた相手だ。

倍返しどころか、
数百倍にして返した。



意地悪を計画していたときの
あの高揚感は、今だに覚えている。

意地悪は、楽しいのだ。

その時の顔を今自分で見ることはできないけど、

それでも、わかる。

あの顔だ。

あの顔。




私は子どもに何を伝えたい?

子どもを通じて見せてきた事象に対して、
私に何を伝えたいのか。

相手に対して思う感情は、
どこかの私に対して出てくる感情だ。


意地悪なことをすることに味わう感情。
その楽しさを味わい続ける人生を選択するのか。

その楽しさは、
相手の反応によって変わるものだ。

相手に対してその気持ちを持ち、
そのことに対しての一種の快楽を伴うのだ。


その快楽をやめられずにいる状況下の人間を沢山見てきた。

私もその快楽を味わいたいのか?

嫌だ。



こんな極端ではなくても、

慢心や、驕りは、
相手と比較することで持って、
快楽をもたらしているのではないのか。



私は、その類いの
よろこびを味わっていきたいのか。
それが、私の喜びなのか?


嫌だ!
嫌だ!
嫌だ!



この嫌だ!は
息子に言い続けてきたことだ。

嫌だ!って出せっ!!って。




そうか。そういうことだ。



他人の目を気にしたり、

他人と比較したりすることで
驕りや慢心の心は、

私の喜びとして認定させたくない。



その類のよろこびが
お前の喜びでよいんだな。

に対して、

嫌だ!!!と強烈な感情が出た。




少し前に出会った大きな気づきによって、

私によって救い出された
とてつもない安堵感を感じることができた。



これがあったから、
安心して探ることができた。

私にある殻はまだ沢山あったから、
これからまだ色々でてくるのかもしれない。



でも、今回のはかなり大きかったと思う。

また試すように何か事象が現れるかもしれない。

だけど、

安堵感と共に、
また事象を投影した私と対峙しよう。

世界は優しさで溢れている。

と確信を持って思えているのだから。


サムネイルのカポは記事とは無関係。

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