私の意見は誰の意見なのか

 

 

 

ふと、

 

「その感情、本当に自分から湧いてきたの??」

 

と毒を吐く私がいた。

 

 

人の投稿に対してだ。

 

 

例えば、誰か自分にとって特別な存在が、

 

 

中秋の名月に、

 

「お月様がキレイ」

 

 

と呟いている投稿を見て、

 

そのあと月をみて、

 

「今日のお月様は一段とキレイだな」

 

 

と思い投稿した

 

その、感情。

 

誰かが言ったから

 

そう思うような箱に入ってしまったんではないのか、

 

 

その投稿を見る前に月を見て

 

「一段とキレイだな」

 

と思うその感情が出てきたのか、

 

出てきたその感情の濃度は同じなのか。

 

 

 

人はなんらかの影響を受け合っているが、

 

自分の意見でさえ、

 

自分の意見なのだろうか。

 

 

 

みたいなことを、数日前に、スタエフで配信をした。

 

そしたら、数日後に新たな気づきがやってきた。

 

 

その気付きに、しばらく呆然とし、

自分の思考の癖に愕然とした。

 

簡単にいうと、

 

自分の仮説の根拠を、人の意見に求めていたことに気付いたことだった。

 

 

 

ここはブログなので、

ここに至る経緯を端折りながらも、

事細かに記載しようと思う。

 

 

 

  意識と健康についての仮説

 

私は、

子どもが産まれてから、

 

健康について興味を持つようになった。

 

 

家族が心身共に健やかな状態でいるためには、

 

ということに主な関心がいき、

 

そのことについてのインプットに

時間を費やしていた。

 

主には、

ソクイク(息・足育)・原始反射・栄養について。

 

今もお世話になっている、ヒモトレに出会ったのも、

その流れがあったからだ。

 

 

3年前の2018

私は、意識の世界へと扉を開くことになる。

 

 

意識と現実創造の実験をしているブロガーさんがいて、

その人やその周りの人たちをよく観察するようになった。

 

その観察によって出てきた私の仮説が2つ

 

意識次第で、

 

①カラダの状態はなんとでもできるのではないか

 

②カラダに必要な栄養素はカラダの中で作り出せるのではないのか

 

 

この当時、身体について一緒に学んでよくお話ししていたお友達にこの仮説の話をしたら、

①に関しては、同意を得られたが、

②に関しては、「それはないわ」と言われた記憶がある。

 

検索して出てくる情報、

特にエビデンスについてはその当時から懐疑的に感じるようになっていた。

 

 

Aという事象に対しての

肯定するエビデンスも、否定するエビデンスも、

探せば両方出てくる。

 

自分が何を信じるかによって、

検索の仕方も、目の前に出される証拠も変わってくる。

 

たった一つの正解なんてないんだ、ということがわかった。

 

 

  安心感を求める原因

 

私の中で、確信したのは、

 

【全てが正解になりうる、そのそれぞれに証拠が存在するのだ。】

 

ということ。

 

 

そこの認識に対しては問題ないと思う。

 

だけど、それに対して安心感を求めて行ったことが、

まずかったんだと、今は思う。

 

 

自分が思った直感や、立てた仮説について、

必ず根拠や証拠が存在するのだから、

 

それを探し、見つけることで、

自分の考えに対し、安心感を得ることを続けていた。

 

 

それは、小さなことから、

大きなことまで、

自分の感じたことが、私一人の考えなのか、

そうではないのか?について気になっていた故の行動だ。

 

それぐらい、私は、

自分の考えを持つことさえも、

どこかに同意を求めていたのだ。

 

自分に安心感を得るために、その根拠を他に求めた。

 

 

仮説を立てては、証拠を探す。

 

ネットで捜せば、

大抵の問いに対して、

私の思い通りの証拠や答えが得られた。

 

 

そんな答え探しに私のほとんどの時間を費やしてきたのだと思う。

 

 

ただ、

先ほど紹介した仮説に対しては、

 

ネット上に証拠はないことはわかっていた。

 

 

自分の仮説に対して、

自分で実験しながら、確証を得ていくしかないのか、

 

と思っていた時、

 

 

①②に対して、

 

確証を持って、それを言及している人に出会うことになる。

 

 

その時に、思ったことは、

 

見つけた!!!!

 

 

だった。

 

 

今の今ならば、おいおい!!と突っ込めるのだけど、

 

その時は、

 

自身の仮説の根拠となることを掴めるのでは!!

とワクワクしてしまったのだ。

 

 

今回私の気づきは

 

私の仮説に対する根拠を、

 

その人の言っていること、その人の世界の中に求めていたんだな、ということだった。

 

 

 

それに気付いた時は、

本当に呆然とし、愕然とした。

 

 

そして、上で記したような、

私の思考の癖に改めて認識することになった。

 

 

 

こんな風に記していて沸いてきたことは、

 

 

なぜ、安心感が必要だったのだろうか、ということだ。

 

 

 

私の中から出てきた考えに

 

確証を他に探す必要も、

同意を求める必要も、なかったのだ。

 

 

自分が創造する世界の中で、

 

自分から本当に沸いてきたことなのであれば、

 

それはその世界の中で、全て正しいことであって、

 

そもそも

正しさなんて求める必要もなく、

 

ただただ、そういう世界があるんだ、ということへの

 

信頼を持つことだけで良かったのだ。

 

 

 

だから、安心感を他へ求めても

満たされることなく

終わることはない。

 

信頼して欲しかったのは、

他でもない自分自身だったからだ。

 

 

 

 

  感情が反応するところに気付きがある

 

今回の気づきのおかげで、

 

情報への接し方が変わった。

 

証拠集めをしようとしていない、

ことが自分でもよくわかる。

 

それに、

ザワザワしていた、他人の投稿にも

ザワザワしなくなった。

 

 

感情が動くときは、

何かのメッセージだ。

 

今回、

毒を吐くような自分の感情を

 

なぜ反応するのか?に目を向けて

 

自分の意識の癖に気付くことができた。

 

 

長年の癖だから、すぐに抜けることはないだろうけど、

 

それでも、気付くことができたことが私にとってとても大きくて、

 

 

そしてまた無知の知であることを思い知る。

 

 

そうすると、またギフトがやってきた。

 

それについてはまだ受け取ってはいないのでまた受け取ってから、記したいと思う。