命への誠実さ。
わたしが置く、平和への重石
ー選挙を終えて思うことー

 

平和に関する、わたし自身が辿り着いた、

現時点での「命への誠実さ」を言葉にしてみました。
答えは一つではないからこそ、わたしはこの場所に祈りを込めて、

この重石を置いておきたいと思います。

 

 

「戦争をしない国」を望むと、向けられる言葉

 

今回の選挙を経て、
改憲や核保有、防衛力強化についての議論が、
これまで以上に前に出てきました。

 

非戦、反戦、核保有反対を言葉にして
「戦争をしない国」を望むと、
「お花畑だ」「左翼だ」と言われることがあります。

 

そして、必ず続く問いが
「攻め込まれたらどうするんだ?」

という問いです。

 

この問いが生まれる背景には、
恐怖や不安という、ごく自然な感情があると思っています。
わたしの中にも、その不安がまったくないわけではありません。

 

ただ、その問いだけを出発点にすると、
思考の幅が、急激に狭まってしまうように感じています。

 

 

軍事力と核は、本当に戦争を止めるのか

 

では、軍事力を拡大し、
核を保有すれば、本当に戦争は起きないのでしょうか。

 

たしかに歴史には、核が「抑止力」として機能してきた側面もあります。
冷戦期の米ソ関係は、その代表例でしょう。
この事実を無視するつもりはありません。


核が「使わせない力」として働いた局面があったことは、
現実として認めるべきだと思っています。

 

けれど同時に、軍拡がさらなる緊張を生み、
一つの火種が引き返せない大戦へと連鎖していった歴史も、
人類は何度も経験してきました。

 

「抑止」という名のもとに積み上げた武器が、
外交や理性が機能不全に陥った瞬間、
逆に平和への逃げ道を塞いでしまう。
その危うさもまた、歴史が繰り返し示してきた現実です。

 

 

戦争を防ぐ力は、軍事力だけではない

 

そもそも、戦争を防ぐ力は、軍事力だけではありません。

 

経済力。
外交力。
国際社会からの信頼。
そして、国内の安定と分断の少なさ。

 

これらが揃ってこそ、国は「攻め込まれにくい国」になります。

 

では政府は、本来最優先で取り組むべきだったことを、
十分に積み重ねてきたと言えるでしょうか。

 

強い経済力を取り戻すこと。
人々が将来に怯えず、働き、暮らし、
子どもを産み育てられる社会の土台を整えること。
分断を広げず、対話を重ね、信頼を積み上げる政治を行うこと。

 

これらを後回しにしたまま、不安だけが積み重なり、
「武器を持つしかない」と感じる空気が生まれている。


その感情自体を、わたしは否定したいとは思いません。
理解できる部分も、正直にあります。

 

けれど、だからこそ、強い恐怖を覚えるのです。


やれることを十分にやってこなかった政府が、
暮らしを不安定にしてきたその上で、
武器や核の議論を前に押し出していくことに。

 

 

日本にしか果たせない役割

 

日本には、他国とは異なる立場があります。
世界で唯一、原子爆弾によって市民が大量に殺戮された経験を、
国家として抱えている国です。

 

その日本が核を保有するという選択は、
単なる安全保障政策ではなく、
戦後世界に示してきた
「命の尊厳を守る」という立場そのものを、
自ら手放すことになるのではないか。
そう感じています。

 

 

核を持たないという選択の意味

 

核を持たないという選択は、無力の宣言ではありません。
核の非人道性を訴え続けるという、日本にしか果たせない国際的役割であり、
それ自体が一つの現実的な抑止力だったはずです。

わたしは、その役割を果たし続けることが世界の希望であると思っています。

 

 

 

 

改憲すべてを否定しているわけではない

 

改憲について、
わたしはすべてを否定しているわけではありません。
同性婚が可能になる改憲が実現するなら、その点については大賛成です。

 

けれど、自民党の憲法改正草案については、慎重にならざるを得ません。


 

憲法とは、だれを縛るものか

 

法律は、国民を縛るためのルールです。
一方で憲法は、国家権力を縛るためのルールです。
この役割が逆転した瞬間、
憲法は国民を従わせるための恐ろしい道具になります。

 

 

権力を縛るはずの憲法が、緩められようとしている

 

自民党の改憲草案には、
政府に権力を集中させる「緊急事態条項(国会機能維持条項)」の新設や、
個人の自由よりも「公の秩序」を優先させるような文言が含まれています。

 

本来、国家権力を縛るはずの手綱を緩め、
国民への義務を増やそうとしている。


暮らしの基盤すら十分に整えてこなかった政府に、
国家権力(政府)を縛るための新しいルールを委ねてしまっていいのか。
わたしは、そこに強い懸念を感じています。

 

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憲法9条が果たしてきた「現実的な歯止め」

 

憲法9条についても、現実に機能してきた「歯止め」として
残したいと思っています。

自民党の憲法草案では、自衛隊を「国防軍」として明記し、
海外での軍事行動を可能にすれば、
政治の判断ひとつで、戦場に派遣される道が制度として開かれます。

 

9条は、どれほど強い要請があっても、
人を戦場に送らないための最後のブレーキでした。

実際、ベトナム戦争の際には、

アメリカからの要請に対して

日本は9条を理由に自衛隊を派遣しませんでした。

 

もし当時、海外派兵を可能にする憲法だったとしたら、
日本の若者たちも戦場に立たされ、

多くの命が失われていた可能性は否定できません。


わたしは、自衛隊員を、他国の戦争の当事者にしたくありません。

 

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国民が示すべきもの

 

「じゃあ、攻められたらどうするんだ?」

 

この問いに、国防の専門家でもない一市民が、
完璧な答えを出すことはできません。

 

けれど、国民が示すべきなのは、
具体策の細部ではなく、
どんな社会を望むのかという方向だと思っています。

 

恐怖から選ぶ社会なのか。
信頼と対話を積み重ねる社会なのか。

 

世界から「失われては困る国」であり続けること。
対立の中でも「対話を手放さない国」であること。
核がもたらす悲惨な現実を、想像し、

世界に語り続ける国であること。

 

 

平和な国であり続けるとは、
「戦う覚悟」を叫ぶことではなく、
戦争を選ばずに済む条件を、
平時から積み重ね続けることだと、わたしは思っています。

 

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非戦・非核という側から、あえて置く重石

 

改憲や核保有という「強い力」に

急激に傾こうとする時代の中で、
わたしはあえて「非戦・非核」という側から、
ブレーキをかけ続けたい。

 

どんなに非現実的だと言われても、
そういう人間は、社会の中に一定数、必要だと思っています。

 

だからこそ、

命の側から、重石を置く。

 

それが、全体を俯瞰したうえで、
わたしが選んだ「中道」としての立ち位置です。

 


※ここでの「中道(ちゅうどう)」について

仏教における「中道」とは、単なる「真ん中」や「どっちつかず」という意味ではありません。「快楽」と「苦行」という両極端に囚われず、偏見を捨てて「ありのままの真実」を見つめようとする知恵のあり方を指します。

わたしが「中道」という言葉を使うのは、右か左かという対立の枠組み(両極端)を超えて、命という逃れようのない現実をまっすぐに見つめ続けたいという、表現者としての願いを込めているからです。特定の政党や政治団体とは一切関係ありません。

 

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いつか、子どもたちに胸を張って手渡せる未来を、
これからも、地道に、誠実に、探求し続けたいと思います。

 

 

 

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