ワードプレスに書いた記事ですが、こちらでもシェアします。

 

娘が小さい頃から育児で意識していたのは多様性への理解(過去の記事『多様性と異文化理解』)。

 

でも娘が小学生になり、目の届かない場所で生活する時間が増えてからは、「『皆んな違っていていい』って、日本ではどういうことだろう?」と考えさせられる場面が増えた気がします。

 

 

些細な違いが大きくなる時

 

ある日のこと、娘の友達のおばあちゃんが私に「相談したいことがある」と言ってきました。話を聞くと、娘の友達のYちゃんが学校で嫌な思いをした、と。

 

 

Yちゃんが別の友達と遊んでいる時に、その子に

 

 

「手がハンバーグみたい」と言われたと。

 

 

さらに「そんな色にはなりたくない」と繰り返し言われたそう。

 

 

それ以来、Yちゃんは自分の肌の色を気にして落ち込むことが増えた、とおばあちゃん。

 

 

それを聞いてびっくりした私は、その夜 娘に「そんなことが学校であったの?」と聞きました。「うん、○○ちゃんだと思う」とクラスの子の名前を挙げました。娘はその場にはいなかったらしいけれど、どうやらYちゃんからその話を聞いたのだそう。

 

 

「そうなんだね、、、。Smileはどう思う?」と聞くと、

 

「うーん、私も日焼けしてるから結構(自分のことを)黒いと思うけど、相手が傷つくことを言うのは良くないよね」と娘。

 

 

ごもっとも。

 

 

「○○ちゃんに言おうかな」と娘。

 

 

「いや、Smileの目の前で起きた訳じゃないから言わなくていいんじゃないかな。ただまた同じようなことが目の前で起こって、嫌だなってSmileが感じたら本人に伝えたらいいかもね」

 

 

多様性を意識して育児をしてきたものの、こんなにも身近な所で肌の色の違いが話題に上るとは。しかも本当に些細な違い。

 

 

ああ、そうか。昔に比べたら多様性に富んできたとは言え、まだまだモノカルチャーな環境では大きな目立った違いがないから、ほんの些細な違いも大きな違いになってしまうのだな。大きな違いがないからこそ、重箱の隅をつつくように小さな違いを指摘するんだな。と何だか複雑な気持ちになりました。

 

 

軸をしっかり持つ

 

自主保育スクールの時のように、その場にいたらその子と話もできるだろうけど、間接的に聞いた話だから何も出来ないことがもどかしくもありました。

 

 

そしてYちゃんと、その子とのことなので、私がどうこう言う訳にもいかないけれど、Yちゃんのおばあちゃんには、多様性のことについて少し話しました。

 

 

みんな違っていて当たり前

 

 

でも学校という小さな社会ではその違いを指摘されたり、違うことで嫌な思いをすることもあるかもしれない。娘のクラスメイトも、今はまだ悪気がなく相手を傷つけてしまっていたかもしれないけど、いずれ悪意あるものにならないよう、教育を通してでもいいから本人が気付いて欲しいな。

 

 

我が家でも、娘が今後 学校で何かあったとしても、自分のことを認められるように環境を整えたい。そして自分の気持ちを発散できて話せる相手でありたいなぁと改めて感じた出来事でした。

 

 

 

 

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