みなさん、こんにちは。
今日は昨年のスーパー猫の日から1年、今年も猫の日がやって来ましたね!
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ハチワレ猫って、僕は好きですよ〜
動物の飼育不可なアパートに住んでいるので、とくに今は愛猫という存在もなく、外で見かける猫さんへ勝手に愛情を感じているだけなのですが、やはり猫の日というのは素通り出来ないですね〜。
今、フィルムのデジタイズを始めていて、はるか昔に撮った自分の猫写真と向き合っているところです。
ある海辺の広場で出逢った猫たちの栄枯盛衰を写し撮ったフィルムなのだけど、その中では愛猫と呼べる猫がいましたねぇ…
愛称は「三太」と付けました。
三太に関しては、またどこかで詳しく触れることになると思うけど、実際、本当に僕にしか懐かなかったのら猫なので、僕にとってはことさら思い入れの深い1匹なのです。
シャイで神経質で、撫でられるのも抱っこもキライ、出逢った当初は、引っ掻かれる、噛まれるのも当たり前で、三太のおかげで「猫引っ掻き病」にも見舞われたくらい(当時、そういう病名がちゃんとあった)
でもそれは三太が悪いわけでなく、そういう性格の猫だったということですよね。
しばらくの間、ある程度の間合いを取りながら付き合ってみると、三太の性格が徐々に分かってきて、三太の方も僕のことを理解してくれたようで、そうなると撫でたり触ったりしても大丈夫になりました。
夕方の、愛おしい寝顔。
他の猫も人もいないので、安心してテーブルの真ん中でウトウトしているところ。
もはや言葉はいらないね。
おやすみ、三太。
あれから四半世紀。
この広場は既に無く、広場の周辺で暮らしていた猫の姿も消えました。
この広場に通って、猫たちの生き死にを記録してきたのは、たぶん僕くらいのものでしょう。
写真を始めた頃のフィルムなので、まだ洗練されていないし、粗さというか詰めの甘さも目立ちますが、のら猫たちの生き死にの記録としては輝きを失っていません。
今、生粋ののら暮らしの猫は、本当に減ってしまいました(いないわけではないけれど、外猫の多くは地域猫になっている)
のら暮らしは過酷だ、寿命が短い、避妊/去勢していないので増えすぎる… 等々、のら暮らしが否定される理由は分かります。
もっともな事だと思う。
でも、のら暮らしの猫たちと付き合ってみると必ずしも否定される存在でもないと思うのだけどなぁ…
のら猫が生きている場所が残されている街の方が暮らしやすいというか、息がしやすい街だろうと、僕は思います。
それが四半世紀にわたってのら猫たちを追い続けてきた、僕の実感です。
心に猫の棲む人ならば、きっと分かってもらえるんじゃないかな。
一方で、きちんと保護されるべきという考えも理解できます。
ただ、猫の子1匹見えない街というのは、きっと人間も生きにくいと思う。
猫の子1匹見えないというのは、その街にそれだけ余裕がない、余白がないということの証左だから。
やはり街には猫が居てほしい。
猫を大事にする街が増えてほしい。
そう願って止みません。
「三太、おいで〜」と声をかけると、とことことやって来るところ。
ただそれだけの瞬間なのだけど、確かに僕はしあわせでした…
猫の日。
ありがとうね、三太。
ありがとうね、すべての猫さんたち。
忘れないよ!
そして、これから出逢うであろう猫さんたち。
どうかどうかよろしくね!
そこに確かに君が居たという記録を、僕なりに残しておきたいから。
猫の日。
すべての猫さんたちに幸ある日でありますように…