ジプシー・ジョー!!! | 酒井正和 オフィシャルブログ Powered by Ameba

ジプシー・ジョー!!!


12.11「SMASH.11」参戦決定!!

ジプシー・ジョー(Gypsy Joe、1933年12月2日 - )はプエルトリコ出身のプロレスラー。本名はヒルベルト・メレンデス(Gilberto Melendez)。全盛時は流血戦を得意とするラフファイターとして活躍した。

小柄だが無類のタフネスを誇り、スチール製の椅子で殴打されても反対に椅子の方が折れ曲がってしまうほどの驚異的な肉体の持ち主で知られる。


スマッシュの挑戦!








来歴
少年時代にプエルトリコからニューヨークに移住し、1963年にWWWFのローカル・テリトリーでルー・アルバーノを相手にデビュー。当時のトレーニング仲間には、同じプエルトリカンのペドロ・モラレスやカルロス・コロンがいたという。

以後、北米大陸各地を転戦し、1974年にメキシコでアズテック・ジョー(Aztec Joe)なるインディアン・ギミックのレスラーに変身。その後ジプシー・ジョーと名乗り、カナダのモントリオール地区に登場、マッドドッグ・バションと抗争を展開した。

1975年9月、バションの推薦で国際プロレスに初来日。以降も同団体にエース外国人の一人として来日し、ラッシャー木村のIWA世界ヘビー級王座に再三に渡って挑戦。王座奪取は果たせなかったものの、金網デスマッチにおいて金網最上段からダイビング・ニー・ドロップを放つなど破天荒な暴れっぷりを見せた。1977年2月に開幕した『第6回IWAワールド・シリーズ』では、公式リーグ戦でモントリオールでのバションとの因縁試合を再現している。国際プロレスには崩壊間際まで来日を続け、1981年8月の同団体の最終シリーズにも参戦した。

国際崩壊後の1981年からは全日本プロレスの常連外国人となり、1985年まで計10回に渡って来日。1981年9月4日にはジャンボ鶴田のUNヘビー級王座にも挑戦している。軽量級であったことからジュニアヘビー級戦線でも活躍した。

アメリカ本土では主に独立系の団体に出場していたためメジャーテリトリーでの実績は多くないが、「無法地帯」と呼ばれていたテネシー地区では1960年代後半から1980年代前半にかけて活躍。1978年11月にはトーナメント決勝でメキシカン・エンジェルを破って優勝を果たし、NWA世界ブラスナックル王座の初代チャンピオンに認定されている。1970年代末より発足したCWAではマネージャーのジミー・ハート率いるヒール軍団の一員として、ジェリー・ローラー、ロッキー・ジョンソン、ジミー・バリアント、トミー・リッチ、ビル・ダンディーらトップスターと流血の喧嘩試合を展開した。国際プロレス時代は選手の招聘窓口も担当しており、デビッド・シュルツやポール・エラリングをテネシーから初来日させている。

1984年にはカンザスシティのNWAセントラル・ステーツ地区に登場し、ミスター・ポーゴと組んでセントラル・ステーツ・タッグ王座を奪取。その後、1985年の全日本への来日を最後にしばらく近況が聞かれなかったが、1991年にエル・グラン・ピストレロ(El Grande Pistolero)なる覆面レスラーとして、CWAの後継団体であるテネシー州メンフィスのUSWAで復帰、USWA認定ジュニアヘビー級王座を獲得した。

同年8月、W★INGの招聘で久々に日本マットに登場。1993年2月3日には後楽園ホールにて、高杉正彦を相手に5分間のエキシビション・マッチによる引退試合も行われたが、その後も単発的に復帰しており、1995年と2002年には後継プロモーションのIWAジャパンに来日している。国際プロレス時代と同様に、W★INGとIWAジャパンではUSWAとの渉外窓口の役目も担った。

現在も各地のインディー団体にスポット参戦を続けており、2007年にはアメリカ東部のIWA East CoastでNOSAWA論外と対戦。2009年4月1日にはハードコア・レスリングのレジェンド[1]としての功績を称え、同団体主催によるトリビュート・イベント "Gypsy Joe Tribute Show" も行われた。

スマッシュの挑戦!