スマッシュ 古木克明選手のプロフィール! | 酒井正和 オフィシャルブログ Powered by Ameba

スマッシュ 古木克明選手のプロフィール!

古木 克明(ふるき かつあき、1980年11月10日身長183cm体重85kg )は、三重県松阪市出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)。現在は総合格闘技転向。スマッシュ所属。

<プロ入り前 >
豊田大谷高校2年時の選手権、長崎南山高校戦で2打席連続本塁打で頭角を現し、3年時の第80回全国高等学校野球選手権大会ではベスト4にまで進出。1回戦では後のチームメイトとなる村田修一率いる東福岡高と対戦し6対4で勝利。2回戦では上本達之擁する宇部商高と対戦、延長戦を制し3対2で勝利。準々決勝では和田毅がエースの浜田高と対戦、延長を制し4対3で勝利。準決勝では吉見太一擁する京都成章高と対戦するが4三振と精彩を欠きチームも1対6で敗退。

高校時代は練習の虫で、甲子園の中継でバットを抱いて寝る、グローブなどの道具を大切にする選手として紹介された。レフト方向にもホームランが打てるスラッガーだった。

1998年のドラフト会議において、松坂大輔の外れ1位指名で横浜ベイスターズに指名され入団。指名当日、ダイエー(現・ソフトバンク)志望だった古木に権藤博監督が直接挨拶に出向いた。

<プロ入り後 >
1999年から2001年、一軍の出場は数試合だったが、二軍では1999年にフレッシュオールスターゲームMVP、2000年に打率.305・10本塁打、2001年には打率.272・12本塁打と長打力を発揮していた。2000年6月6日、イースタン・リーグの日本ハム戦で同点で迎えた9回裏1死満塁の場面で左翼を守っていた古木は、捕らなくてもよい外野ファールフライを背面キャッチし、犠飛でホームインを許し、観客から爆笑されるなど、その頃から守備面が懸念されていた。

2002年
背番号3を石井浩郎に譲り33に変更。二軍でチームトップの打率.285、13本塁打を打ち、シーズン後半に若手起用の方針から一軍で積極的に起用された。9月7日に川尻哲郎からプロ入り初ホームランを打つと、その後1ヶ月半で桑田真澄、山本昌、岩瀬仁紀などエース級投手から次々に本塁打を放ち、最終的に9本塁打を記録。打率も.320を記録した。また黒江透修監督代行によって9月後半から13試合で4番として起用された。シーズンオフに開催された第15回IBAFインターコンチネンタルカップでは日本代表に選出され、4本塁打を放ち、本塁打王とベストナインに輝いた。

2003年
6番・三塁で開幕スタメンで起用されるなど大きな期待が掛けられる。本塁打は22本と量産したが、打率は.208と低く、131三振はリーグワーストのタイロン・ウッズの132三振に次ぐ記録だった。左投手やチャンスに弱く(打点はわずか37)、守備ではリーグ最多の20失策を記録し(三塁で18失策、外野で2失策)、打撃でも守備でも粗い面が目立った。シーズン後半からは外野手として出場。7月5日の横浜スタジアムで開催された広島戦では三塁ゴロを捕球し一塁へ送球しようとした時に、踏み込んだ左足を踏み外して大暴投するという珍プレーをしてしまう。そのプレーを、清原正博アナウンサーは「古木あーーーーっと!」と実況し、解説の斉藤明夫からは「自分のお庭ですよ!お願いしますよ」と言われてしまう。シーズンオフに失策王になった古木の守備を何とかするために、親会社はダンストレーニングを課した(沖縄アクターズスクールに入れられる)。

2004年
この年から正式に外野にコンバートされた。しかし多村仁、佐伯貴弘、金城龍彦が揃って3割に到達し、外野のレギュラーが固定されていたため、主に代打として出場。打率は.290と上向き、出塁率が.365と打撃面では向上。5月4日の巨人戦(横浜スタジアム)で決勝本塁打を放ちお立ち台にあがったが、そのときのヒーローインタビューで「こどもの日に打ててうれしいです!」と発言し、一緒にインタビューを受けていた佐々木主浩に指摘され、アナウンサーにも「今日がこどもの日と間違えるくらい興奮しているんですか?」と突っ込まれ苦笑いをした。

2005年
新監督の牛島和彦が守備力を重視していたこともあり、安定した守備力を持つ小池正晃との定位置争いに敗れ、出場機会が減少。オフに他球団へのトレードを志願したが、球団側の説得やファンの声援もありトレード志願を取り下げた。

2006年
多村の故障や小池の打撃不振により、3年ぶりの100試合出場と出場機会を得たものの、打率.252と結果が残せず、小池の復調や吉村裕基の台頭後は再び控えに回るようになった。外野守備においても打球判断の拙さから平凡なフライを三塁打にしてしまうなど、外野手ではリーグ最多の8失策を記録した。4月25日の阪神戦では、左翼の守備で慣れぬ地方球場(草薙球場)の風や試合序盤の薄暮のためか、矢野輝弘のフライを、ほぼ落下点に入りながらグラブにも当てられず「バンザイ」してしまった。シーズン終了後、右ひじ骨棘除去手術をした。

2007年
前年の手術の影響でキャンプは二軍スタート。開幕第2戦で門倉健からチーム第1号となる決勝本塁打を放つなど、前半戦はそれなりの活躍を見せていたが、夏には再び二軍落ちを経験するなどシーズン通しての活躍はできなかった。同年オフに大西宏明との交換トレードでオリックス・バファローズに移籍。

2008年
開幕は二軍スタートだったが、4月に一軍に昇格するとまずまずの打撃を見せた。しかし5月は月間打率が1割台と打撃不振で6月上旬に二軍降格。その後二軍ではチーム2位の7本塁打、打率.279の成績を残したが、一軍昇格することなくシーズンを終えた。出場機会は2002年以降では最少で、一軍で本塁打なしに終わるのは7年ぶりだった。

2009年
開幕は二軍スタート。二軍では打率が3割を超えるなど好調な打撃を見せ、5月に一軍昇格。対右投手時のスタメン及び左の代打要員として起用されたが結果を残せず、1ヶ月ほどで二軍降格。その後二軍では打率は.310と好成績を残していたが、同時に三振王(74個)にもなり、一軍に昇格することなくシーズン終了。10月3日に戦力外通告を受けた[1]。その後、12球団合同トライアウトに2度参加したが獲得球団はなく、現役を引退。

格闘家へ転向
2009年12月8日、格闘技の新団体「スマッシュ」に入団することが発表された。「野球に未練はない、世界を代表する格闘家を目指したい」と意気込みを語った。2010年春頃の格闘家デビューを目指している。12月20日に行われたプロ野球55年会が企画したチャリティーマッチに参加、9回に代打で出場しレフトフライに終わった。試合後、古木にとっては最後の試合ということで両チームの選手による胴上げが行われた。尚、格闘家転身については2009年12月30日に放送されたTBSのドキュメント番組、『壮絶人生ドキュメント 俺たちはプロ野球選手だった』でも紹介された。



ウッキペディアから抜粋




スマッシュの挑戦!



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