少しキザだけど、若い頃趣味はと聞かれ、勉強する事と答えていた。事実、社会人になっても語学を含めた勉強は欠かさなかったと自負している。

 

反骨精神の原因は、オイルショックだった。旅行会社は、先の大阪万博景気で昇り調子で、僕が採用された時は、男性の同期が500名近く入社した。ただ、入社前にオイルショックが起こり、それから三年は採用がストップした

 

だから、3年間は職場には先輩しかいなかった。だから、自分なりに人を見る目は自然と身に着いた。尊敬できる先輩は、役職者を除けば、数える程度だった。仕事をしていない人、口先だけの人、組合は絶対だと思っていた人が多く、自分自身で学ぶしかなかった。だから、余計生意気に見えたのだろうか、盆も正月も添乗に行かされた。

添乗も3回ほど、補助添乗をこなして、あとは自分の添乗スタイルを確立した後は、殆ど一人もしくはチーフ添乗員で部下を育てていた。

特に、僕が一番怒っていたのは、地方での五年間だった。以前、ブログにも書いたが、振替休日、残業代もまともに貰えない暗澹たる環境だった。実に不条理なサラリーマン時代だった。だから、先輩や同僚ともよく喧嘩した。何故なら、自分自身を全部棚上げにして、勝手な言動が多く、納得できるものでなかったからだ。その為にも、自分自身が孤軍奮闘するしかなく、トップ営業マンであり続ける事が僕のアイデンティティとなった。

そして、自分が役職者に登用されてから、周りは上ばかり(ゴマスリ)見ていて、現場の苦労も見ようとしなかった。ここでも、また怒っていた。

 

営業成績でも、第二次オイルショック、9・11などどうしようもないのに、数字が行かないと減俸された。部下たちもモチベーションが下がり、転勤を希望する者が多かった。こういう時は、リセットするしかないと考え、全て転勤希望を聞き入れた当然エース級が転勤すれば、数字は下がる自明の理でした。ただ、この頃は達観していたので、翌年予算達成できるよう踏ん張り、予定通りだった。

 

その後も、不良債権の裁判、うつ病対策など問題はあった。でも粛々と受け入れることを選んだ。

 

今、又、今度は自分自身に怒っている。会社では、社員を守ったのに、家族を守れたかを日々、猛省しつつ、どうこれからを生きていくかを考えている。

 

ただ、一方で勉強への意欲は増すばかりだ。特に、教養=知識✖️考える力 を念頭に今までの歴史観など体系化を図る行動を起こしている。朝鮮史は、僕なりにブログで、公開している。今後は世界史をまとめていきたいと考えています。

まだ、ボケる年齢ではないし、若い頃挫折したギター練習は、今は続けているので、ボケ防止にはなっている。生涯現役は、僕の変わらぬ僕の生き様です

 

こんなブログには、友人の安達さんの絵がとてもふさわしいと思っています。

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