昨日、夕刊フジの取材でギランバレー患者に会った。
Aさん、30代後半。昨年のギランバレー発病時、妊娠5ヶ月。
入院中は3歳になる長男を、夫が育児パパに徹して育ててくれたという。
ついに病気を克服してリハビリもほぼ成功、昨年の10月に無事長女を出産。
今は両足のつま先に痺れがあるものの、
長女を抱きかかえながら元気で取材に応じてくれた。




Aさんはギランバレーを克服しただけでなく、出産という女性にとっての“一大事業”を遂げた。
Aさんの成功の秘訣は何だろう?
(ビジネス本のような書き方ですみません)
Aさんにあって、私にない成功要因は?
そして私だからこその成功要因とは?



まずAさんの親族に医療関係者がいたこと。
ギランバレーという病名がわかってから
その親族から「死ぬ確率は低い。悪い状況になってもそこから必ずよくなる」
と説明され、そして励まされた。
ものすごく心強い味方を得ましたね。


さらに
Aさんはリハビリ専門病院で半年間入院して
自主トレを含めて6時間みっちりリハビリを行った。
これは普通ではありえない。
ご存じの方も多いと思うけど
現在“リハビリ180日打ち切り”が当たり前。
反対する団体のドクター代表が、同業者からシカトされ、四面楚歌にあるという状況だ。
厚生省にお達し通り、右にならえ!
で、国のリハビリの環境の政策は、患者にとって北風だ。
180日でうち切られた後は、自己責任だっちゅうのは、なぜ?
という不平不満を述べたところで、自分の体と人生を立て直すのは、やはり
周りの協力が必要。
Aさんのこのリハビリ病院への転院は
親族である医療関係者が探してくれた。
妊婦だということもあって、
個室で闘病していた時もあったという。
つまり身内の協力とコネと資金があってこその成功なのでしょう。




では私といえば、Aさんのような成功要因は、ない。
死にそうだった頃は、田舎から母や妹がやってきて見舞ってくれた。
K病院の頃は、本当に実家の家族にはお世話になったと感謝している。
でも社会復帰をするにあたって、家族の協力を仰げなかった。
Aさんは個室で見舞いに来てくれた夫に
「おなかの子供と一緒に死にたい」と訴えたそうだけど
私には「死にたい」と言える家族もいなければ、
気管切開のため喉に管が入っていたので
言葉すら、発せられなかった。
Aさんのように、そばに甘えられる家族がいるというのは
本当に幸せなことだと思う。




ではAさんになくて、私にある成功要因とは何だろう?
昨夜そのことを考えているうちに
はっとなった。


退院してから今までのレギュラーは全てなくなり、
一から執筆の仕事を探さなければいけなくなった。
どれだけキャリアや実績があっても
長い間休んでいれば文筆業者は忘れられてしまう。
仕事は私を助けてくれない、
と情けなくなったことを、今でも覚えている。
悔しかった。
でもよくよく考えてみると、
仕事をしていたからこそ、
回復や社会復帰までの大きな山を切り開いてきたのだということに気がづいた。




K病院は、患者を早く退院させることで有名な病院だ。
早期退院=厚生省から優秀な病院と見なされるからだ。
そのK病院に、3ヶ月と20日も入院できた。
「それはすごいよ!」
と元AERAの記者が驚く。
「一体どうしてK病院に長く入院できたの?」
元AERA記者からの質問に答えられる、ある決定的なこと、
それは私が入院中に、文筆の賞を受賞したことだった。


ライターズネットワークという
フリーのライターや現役の編集者らと
執筆業も兼ねている弁護士や起業家などのネットワークに所属している私は
闘病中に
「英語でリッチ!」という著作で
第12回ライターズネットワーク大賞を受賞した。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4860590457/ref=sib_rdr_dp


残念ながら、7/1の授賞式には出席できなかったけど、
素敵な水晶のトロフィーをいただいた。
そのトロフィーをベッドサイドの脇の棚の上に置き始めた頃のことだ。
K病院の系列で、伊豆にあるリハビリ専門病院へ
私は転院されそうになった。
母が見舞いに行けない、と言うほどの僻地の病院だ。
そんなところに編集者達がお見舞いにくることなど、ないだろう。
そこで私は第二主治医に直談判をした。
「編集者もこれないような僻地病院で、身体能力は回復できても、
仕事の復帰が遅れてしまいます。
もしそうなった場合、先生、責任をとってもらえますか?」



あの時はとにかく必死だった。
トロフィーという現物を目の前にして、訴えた。
すると第二主治医は
「よし、わかった」と、伊豆の病院転院の話は、それっきり。
気管切開による管もとれ、嚥下障害もない、とわかってから退院。
その間、みっちりリハビリをやったおかげで
K病院を退院する頃は、小走りができるほど回復。
K病院に長い間お世話になれたのは、
運良く賞を受賞して、トロフィーという現物があったからでしょうね。



それから
後に書こうと思っている方南町にあるKリハ病院。
K病院からここに転院したが、
ドクターや看護師が、診察をしてくれないし部屋に訪れることもない。
訓練士にお任せ状況という酷いリハビリ環境に、絶望した私。
症状も悪化した私を救ってくれたのが患者達だった。
医療関係者から見放されたと思い込んだ私は、
その理由を知りたくて患者達に話しかけ、

話に耳を傾けたおかげで年輩の女性患者から好かれ、
そしてKリハ病院のズサンな実態を教えてもらったのだ。
さらに
「こんな病院では社会復帰ができない。早くここを出て、良い病院を探して、
リハビリに専念して!」
と肩を押され、
そこで自主退院をして、まともな回復期リハ病院に通院することができた。
「患者に助けられた」
と今でも心から感謝しているが、
私がKリハ病院の情報を入手しようと、患者達の声に耳を傾けたことが功を奏した。
情報入手は
私がこれまで仕事で培ってきたからこそ。
仕事に助けられたのだ。




人は、時間とエネルギーを何かに注いでいる。
助かる要因は、注いだエネルギーと時間に比例しているのではないだろうか?


Aさんは子育てをしながら、時間とエネルギーを家庭に注いできた。
だから身内に助けられた。
私の場合は
仕事での結果と、培ってきたノウハウがあったからこそ
回復までの山場を無事に越えられたのだろう。


人はそれぞれ回復への成功要因がある。
だから
人と比較してはいけないと思う。
だって
病気の症状も、一人一人異なるのですから、ネ☆