母が秋田へ帰ってから
付添婦のやりたい放題はエスカレートした。
まず身体を拭いている途中で、タオルを洗面所に投げつけようになった。
動けない私の身体を蒸しタオルで隅々まで拭いてくれるのはありがたいが、
病室へのタオルの持ち込み数が決まっているため
最初の頃は、数本のタオルを使った後
付添婦はまとめて病室内の洗面所に持っていって熱いお湯で洗ってくれ、
それでまた私の身体を拭いてくれた。
看護士に身体を拭いてもらうのは週二回と決まっているので
毎日、付添婦にやってもらうのは気持ちがよかった。
ところが
母がいなくなってから、身体を拭くたびに付添婦はタオルを洗面所に投げつける。
4人部屋の洗面所は、私のベッドから
10メートルくらい離れた向かい側にある。
洗面所の隣はベッドで、その当時は一風変わった女性が糖尿病で入院していた。


付添婦はまるでストレスのはけ口のように
私の身体を拭いたタオルを投げつける。
バシッ!バシッ!バシッ!
デリカシーの欠片もない音に、私の心は傷つく。
隣のベッドに命中するかもという心配でハラハラ。
それだけでなく
カーテンを閉めているが洗面所の隣の女性が気づいたらどうなるのか……


4人部屋にも近所つきあいがある。
洗面所の隣のベッドの女性は少し変わり者だが、
ご近所はご近所。
できるだけ仲良くしたい。
そうでなければ相手に不愉快な思いをさせないのが
病室内での最低マナー。
もし自分の隣でタオルがバシバシ投げつけられているとわかったら…
付添婦がいない時に、報復されるかもしれない!(怖い~)


しかも洗面所に的中しそこなったタオルは当然だけど、床へ落ちる。
付添婦はそれを拾ってさっと簡単に洗い、それでまた私の身体を拭くのだ。
雑巾で身体を撫で付けられているようで、気持ちが悪い。


身体が動かないから、
喋れないから
舐められているのかしら?


漠とした不安が次から次へと湧き上がってくる。
身体を拭いてもらうのが、少しずつ嫌になってくる。
次第に回数が少なくなって、手足だけになった。


63歳の付添婦は怪訝な表情で、身体拭きを拒否している私の顔を覗き込む。
また不安が広がる。
看護士には痰をとってもらうだけで、ホスピタリティを施してもらえない私だから
付添婦に見放されると、生きていけなくなる。
そこで
口パクで「ありがとう」と微笑む。心のうちを悟られないように。
すると63歳の付添婦はまるで孫にでもするように
「かわいい」と頬にブチュっと、キスする。
そのたびに唾液が頬にべったりつき、糸を引く。ううう、、、、気持ち悪い、、、、
「やめてください!」と突き放すことができたらどんなに楽だろう。
でも握力は0.5、身体は動かない。喋れない。
頬についた老女の唾液すらぬぐえないまま、早く乾いてと願うしか、ない。



人間の尊厳とは、何だろう。


人間として嫌なことをNOと言えない私。
そこに尊厳など、ない。でも本当にないのだろうか?
NOと言えるのは自立している証拠。
だから人は誰でも本当は自然に自立しているはずだ。
生きているだけで自立でき、
法律国家に守られているなら、尊厳も保てると思い込んでいたが、
間違っていた。


尊厳を守れるのは
人が人を思いやってこそ。
例え野蛮な国に生まれ育っても、
人が人を支え、支えあうことで尊厳が存在するのではないのだろうか?



誰に助けを求めていいのかわからないまま
私は付添婦の虐待に耐えた。
虐待はますますエスカレートして
下の世話のときに付着した汚物を私の顔に近づけて見せたり匂いをかがせようとしたり、
(鼻に管が入っていたので、汚物臭はわからず。不幸中の幸い!)
病室の病人たちの悪口を耳元で囁いたり、
向かいのベッドでインシュリンを打っている患者の様子を見ろと、急に私のベッドを上昇させて、挙句にその患者を『ゾウ女』と耳元で罵ったり、
私のベッドに勝手に靴のまま上って、ベッドの上の棚から荷物をとろうとして怖がらせたり……


付添婦の傍若無人な態度と虐待をこれ以上許すわけにいかない!もう、限界だった。
でも、誰も助けてくれない……
付添婦の雇用は病院側が母に勧めたこと。
いったい誰がこの窮地から救ってくれるの?


再び絶望の淵に立たされた私。
でも
神は私を見捨てなかった。
皮肉なことに、
付添婦の傍若無人さがエスカレートすればするほど
私を苦しめていたギランバレーの症状が、
緩やかに快方へと向かっていったのだ。