ギランバレーで2007年4/7に倒れ、
すぐGICUに運ばれ、翌日の4/8には咽喉を切開して人工呼吸器。
一生口がきけないと絶望していた私だが、
光が見えてきたのは5/7に新しい病棟へ移送されてから。
研修医Kの説明によると、病気のために攻撃されていた呼吸筋だが回復につれて攻撃もなくなり
自分で呼吸ができる、つまり人工呼吸器を外して咽喉の管も交換したら、喋れるようになると。
本当は医学的な説明が詳細になされたのだと思うが、
研修医Kの言葉の一つ一つを覚えている余裕はなく
とにかく
「喋れる!」ことに有頂天になっていた。
やっと光が見えてきた……
と思っていた矢先のことーー


婦長の申し出により、夜間の間、付添婦を雇うことになってしまった。
理由は私がナースコールを押しすぎたためだという。
でも必要だから、私はコールしていた。今でもそう思っている。
しかし残念なことに病院側はそのように捕らえてくれなかった。
看護士の負担をできるだけ少なくしたい。それが病院側の本音だった。
看護士の負担をできるだけ少なくして、人員確保をしたい。何せ人手不足なのだから。
そうなると患者はまな板の鯉状態で、病院のいいなり。
必要だから押しているナースコールを、避けてもらいたいと、
付添婦雇用を母に強制に近い形で依頼した。
夜間一日1万8000円。
昼も雇用を催促されたが、そうなると昼夜で3万6000円。
一ヶ月100万以上も付添婦に払うお金など、はっきりいってないと悲しげに語る母。
「命を助けてもらった病院だから感謝して、夜間だけ付添婦を雇うことにしたよ」
とうな垂れた母の心痛あふれる表情を、今でも忘れることができない。


夜間でも、一ヶ月54万もかかる。もちろん、保険もきかない。
動けないという状態が長く続けば続くほど、コストがかかる。
私の命の値段と存続は、果たしてそんなに大きなものなのだろうか?
これは命の存続の値段ではなく、入院費の一部なのだ…
私は自分自身にそう言い聞かせた。
先の見えない症状に、振り回されながら。


患者とその家族はまな板の鯉状態。それが現実だ。
それを承知しないと医療も満足に施してもらえなくなる…
でもそれでいいのだろうか?
そこで委ねる命は、果たして輝けるのだろうか?


付添婦は新しい病棟に移ってから3日目の5/10にやってきた。
63歳の小柄で太っている年輩女性だった。
付添婦のオシゴトは、痰をとること、血圧を測ること以外の全て。
患者である私の身体の位置を動かす、汗を拭く、氷枕の氷を換える、着替えをしてくれる、
身体を拭いてくれたり、体温を測ってくれたり…
シモの世話や、眠剤など薬を飲ませるのも付添婦のオシゴト。
きっと血圧計をもたせたら、看護士の代わりにやると言い出すだろう。
そうなると、看護士の仕事は、痰をとるという医療従事者しかできない専門的なことだけだ。
ホスピタリティなど、必要ない。
これは私にとって、大ショックだった。
付添婦を雇うということは、看護士からのホスピタリティをカットされること。何のための医療なのか?
付添婦雇用を強制した病院は、つまりホスピタリティなしで医療を施すといっているようなものだった。
ホスピタリティは付添婦に施してもらうように。
それが病院からのお達しだと、私は思った。


ナースコールを取り上げられた私は、看護士を呼ぶときも
口パクで付添婦に合図をしなければならなかった。
付添婦は看護士に対して腰が低かった。
はっきりいえば、ペコペコしていた。
病院側がよく使っている付添婦派遣会社から雇用されているせいで、お得意様なのだろうけど
お金を払っているのはこちらだ。病院では、ない。
いったい誰が偉いの?病院と病院関係者なの?
付添婦が看護士にペコペコするたびに、いつも不愉快な気持ちでいっぱいになった。



母が血相を変えて病室を訪れたのは
付添婦を雇ってから4日目の5/13の昼だった。
「やめてもらう!」と大立腹。
理由は、付添婦のオシゴト終了の翌朝8時少し前に
上京して病院以外の場所に宿泊している母のもとに電話をかけて、延長を報告するのだという。
洗濯が間に合わないとか、私の発汗がひどいから拭いているとか…
延長は雇用した日から3日間連続。カモられてしまったのだ…


私は口パクで、「延長するほどのオシゴトではない」と
母に訴えた。
母はいつも、私の口パクを「わからない」と疎ましい目で拒否するが
このときだけは、熱心に私の口の動きから状況を察してくれた。
「やっぱり延長するようなこともないのね。ひどい!しかも自分が着たTシャツを売りつけようとするのよ。

一度袖を通したけど、自分が太っているから合わなかったというTシャツを、あなたに着せたらどうかって。

冗談じゃないわよ、クリーニングもしないで、くれるならいざ知らず、売りつけようとするのよ!

金をむしりとろうとしているのよ!ミエミエだわ!」


久しぶりに母の毒舌を聞いて、元気だなあと安心したことを、今でも覚えている。
母の立腹は最もだが、でも母もいけないのだ。
私達がお金持ちと付添婦が勘違いした原因は、母にあった。
初めて付添婦に会ったとき、母は田舎の家が100坪くらいあると言った。
「まずいな」
ととっさに感じたが、喋れない私は、母の無駄話が終わることをひたすら祈った。


東京近郊では、100坪という広さで家を建てることは、ある意味でセレブなのかもしれないが
秋田の田舎のほうでは100坪は一般庶民でも購入できる土地の値段。
土地は購入できたが維持費が大変で
光熱費や庭の手入れ、屋根の修復などコストがかかりすぎるため、
母は年がら年中、グチをこぼしている。
でも都会と地方の家事情の違いを知らない人だったら
田舎で100坪の土地をもっているというだけで
金持ちに思ってしまうだろう。
くれぐれも付添婦には、プライベートなことを語るべからず、である。
付添婦にカモられていると気づいた母は、婦長に訴えて、代わりの付添婦をつけるといきまいた。


でも
誰がきても、付添婦のホスピタリティを期待できないと思った。
私達にたかっている卑しい付添婦も嫌だが、もう一人同じ派遣会社から派遣されている付添婦も、ひどい。
私のベッドは廊下に面していて、窓際のカーテンを開けているので通行人のことがよく見える。
個室に毎晩通っているその付添婦はいつもうつむいていて、しかも暗い。
お通夜帰りみたいな表情で、世話してもらうだけで悪化しそう。
付添婦を変えたところで
ホスピタリティどころか、新たな問題が起こるだけだろう。


早く身体を動かせるようになりたい!
付添婦がこなくなるから!


あの頃の私はそのことだけを祈っていた。


翌日、母は秋田へ帰った。
その夜に新しい付添婦が来る時間になった。
どんな人だろうと待っていた私の元へーー


あの63歳のカモる付添婦がやってきた!
クビにしたのではないの?


いきさつがわからないまま
引き続き付添婦は毎晩やってきた。
そして
身体が動かない、口がきけない私に対して
やりたい放題のことを行うようになる。
つまり精神的な虐待。。。。。


付添婦の虐待から逃れるためにも
何としてでも
私は病気を克服しなければならなかった。


自分の身を自分でできるだけ守れるように
一刻も早く身体を動かせるようなりたい!


その切なる願いはやがてーー