5/7の午後、私は新しい病棟へ運ばれた。
そのときも意識が朦朧として、白昼夢のような光景が広がっていた。
ギランバレーの治療として
5日間集中のステロイド療法を行ったため、その副作用で
白昼夢を見ていたのではないか…
と後になってから医療関係者から言われたが、白昼夢の原因は未だにわからない。


あのときの白昼夢で
私は大勢の使用人を従えながら、リゾート地にやってきたような解放的な感覚を味わった。
くすぐったくなるような甘美な陶酔。
でもすぐに眠りの中へ入っていった……


夢の中で私はある大学の講義に出席していた。
(この夢はその後何度も繰り返してみることになる)
だだっ広い教室には、最初私一人しかいなくて、次第に学生が増えてくる。
そのうち教授がやってきて講義が始まり、授業が白熱してくる。
私はノートにペンを走らせながら、ふと顔を上げた。
その瞬間、首が動かなくなる…
まただ…
ギランバレーがもたらす悪夢の結末はいつも
“身体が動かない…”
この夢の場合も、首が動かない、どうしようどうしよう…と焦る。
冷や汗も出てきた。でも拭けない。
恐怖で身体ががんじがらめになっていく。
どうしようどうしよう…身体がまた動かない…


そのとき傍で私を呼ぶ男性の声がする。
「佐々木さ~ん、佐々木さ~ん!」
若い男の声だ。
「佐々木さ~ん、起きてよ」
起きてよ~という言葉が、
生きてよ~
に聴こえる。


誰?私を呼ぶのは?あなたは誰?
うっすらと目をあける。
すると、白衣を着た浅黒い顔が飛び込んでくる。
眼鏡の奥の目はぱっちりと大きく、中肉中背で唇が少し厚ぼったい。
「佐々木さん、起きたね。昼間から寝ちゃうと、夜、眠れなくなるよ」
とその若い男は、気さくに話しかけてくる。
はきはきとした言い方だが、どことなく温かい。
“身体が動かない!”という恐怖のギランバレー悪夢をストップさせてくれたのは、
この男性なのだ。
「僕は○○○○。主治医の一人です。佐々木さんの主治医は他に二人いて、ここでは僕を入れて三人ですよ」
こんな若い主治医がいるの?
私は信じられない、という目で彼を見てしまったが
若い主治医、ドクターKはちっとも物怖じしない。
それどころか、堂々としていて、迷いがない手つきで、私を診察する。


そのとき、ベテラン看護士Aさんがやってきた。
小柄な40代のAさんは福島出身で、時々会津なまりが混じる。眼鏡にパーマも彼女の愛嬌の一つだ。
「K先生、ここにいたの?ねえ、さっきも話をしたけど、佐々木さんの管をそろそろ交換してあげてもいいよね」
管の交換?何に交換するの?交換するとどうなるの?
質問が心の中で飛び交う。
それに応えるように、Kドクターがこう言った。
「そうだね、近いうちにね。交換すると、喋れるようになるよ。今まで、不自由だったでしょ」


喋れる?
私が?
唖になってしまったんじゃないの?
一生口がきけなかったんじゃないの?
話が、できるの?
私が?
本当に?


驚きと喜びがKドクターに通じたようだ。
「そうだよ。病気が落ち着いてから、カフなしの管を入れてあげると、喋れるんだよ、佐々木さん」


そのときも、まだ夢の中にいるのかと思った。
でもKドクターは、夢の中の人ではなかった。
彼はそれから

ギランバレーの悪夢から私を引きずり出し、
そして病気の囚人となっていた私を揺さぶり、
幽閉されていた闇の世界に、光を導いてくれた。


ドクターK。
弱冠26歳の研修医。
彼との出会いで、病気克服のきっかけを見出し、奇跡の回復へと向かった。
世界が、変わっていった。