4/7に発病、翌4/8からGICUへ。
二週間後の4/20頃から古い病棟の神経内科へ。
GICUから意識が朦朧としていた。
3日目からリハビリを開始したとのこと。
でも記憶は全くない。
後から聞いたことだが
GICUで5日間に及ぶステロイド投与という
強い薬の副作用のせいか
意識は朦朧、そして身体は急激に硬直した。

「リハの最初にベッドサイドで身体をチェックしてみたら少し動いたけど、
あっという間に身体が硬くなった」
と当時の事をPT(足の訓練士)のミスターIから聞いたのは、
2ヶ月以上経った6月の半ばすぎのこと。
PTのミスターIを私はこっそり“鬼コーチ”と呼んでいるけど
彼がいなかったら、リハビリの回復はもっと遅かっただろう。
ミスターIは他のPTの女性達から“ドS”と言われて親しまれているが、
アクティブな彼の訓練はまるで『スチュワーデス物語』そのもの。
そう、「教官、ついていきます!」のあの世界のまんま…


リハビリテーションのことは、第三章で詳しく書くつもりなので
ここではさらっと触れるだけにしますネ☆


神経内科の病棟で、
私はかつて結核患者が療養していたという、だだっぴろい個室で約1週間、
それからナースステーションに近いけど、
運搬の音などがよく響く個室で約2週間過ごした。

喉を切開して自分の胸幅よりも大きな人工呼吸器をつけていた私は
喉に管で、ここから痰を吸引され、
さらに片方の鼻に管を入れられて栄養剤投与、
腕には点滴針、胸から腹にかけて心電図、さらに尿管、
と実に物々しい。
病人の武装ファッションともいえなくないけど…(苦しい!)
しかも排便はオムツ……


身体が動かないので
身の回りのことは全て看護士の手を借りなければならなくなった。
シングルでフリーライターの私は
これまで一人で自分の事を決めて、全て一人でやってきた(つもりだ)。
でも人生で初めて
何から何まで人様のお世話になることになる。
高齢者でもないのに、
いきなり寝たきりの病人になってしまった私は
ただただ人様の力で生きることに。
振り返ってみると
これはすごい経験だった。
命が助かったのはドクターのおかげで
生きて回復できたは、看護士や看護助手、リハビリのスタッフに、
その他患者達やお見舞いの人たち等々…
心からたくさんの人に感謝できたのも、
あの重症患者だった私がいたからだろう。


古い病棟で忘れられない看護士さんがいる。
彼女はいつも元気な声で
「Eです!」
と自分の名前を大きく言って病室に入ってくる。
私といえば、口もきけないし、身体も動かないし、
コンタクトも眼鏡もないので視力は0.1以下でほとんど見えず、
いつも意識が朦朧として、白昼夢も見るので
生きているのか死んでいるのかわからない状態だ。
でもEさんはいつもまず名乗ってから
「今日はとてもいい天気よ」とか
「身体を動かしてみたい?」、「氷枕とりかえようか?」
と耳元で話しかけたり、聞いてくれたりする。
いろいろな看護士がいたが、喋れないという私に話しかけても無駄だと思う人もいて
黙って痰をとったり、無言で身体を動かしてくれたりということもあった。
でもEさんは、いつも話しかけてくれる。
意識が朦朧としても、彼女の明るく元気な声は耳から脳へ伝わり、
そして脳を刺激する。


彼女の声は、私が元気だった頃を思い出させてくれた。
だからといって、今が辛いなど、決して卑屈にならなかった。
声は人なりかもしれない。
彼女の前向きな姿勢を、耳が記憶していた。


『トーク・トゥ・ハー』という2002年に公開されたスペイン映画がある。
映画ファンなら誰でも知っているペドロ・アルモドバル監督の名作で
内容は
事故で昏睡状態になったバレリーナーを愛する男が
話かけ、触りながら献身的に看護したおかげで、奇跡が訪れる。
奇跡というのは、回復しただけでなく
彼女が病室で彼の語りを覚えていたことが
ラストシーンでわかる。


耳は記憶する。愛は残る。


バレリーナーへの愛が耳を通じて、脳へ運ばれ、記憶として刻まれる。
テーマと内容がすばらしくて、2002年の夏に観劇後、
思わずCDを購入してしまった(ことを今思い出しました…)。


私の場合、耳が記憶していたのは、声だけでなかった。
私を一人の人間として接してくれたEさんの人となりも、覚えている。

2時間おきに私の身体を動かしたり、下の世話をしてくれる場合、
看護士が二人で病室を訪れることがある。
あるとき、Eさんは後輩の看護士と一緒に私の世話を一通りしてくれたが
その時に、後輩に仕事のことをあれこれ聞いていた。
終わってからEさんは私に謝った。


「ごめんね。これから後輩の昇進試験があって、たぶん合格すると思うんだ。
それで何だか嬉しくて、
つい佐々木さんの世話をしながら、後輩とそのことを喋っちゃったね。
うるさかったでしょう。
佐々木さんと関係のない話をしてしまって本当にごめんね」。


口のきけない私はNOという意味で
首を激しく横に振った。
うるさいどころか、私は嬉しかったのだ。
女性が生き生きと将来の話をしているのは大好きで
もっと聞きたいくらい。
しかもEさんは、私が喋れなくても、身体が動かなくても
ちゃんと私を気遣ってくれる。
嬉しかった。
病気になって初めて、病人ではなく、一人の人間として
接してくれたのだから。
ありがとう!Eさん!


それから看護士をはじめ
様々な医療関係者との出会いがあったが
Eさんのように
病人としてだけでなく
人として尊重してくれた人が
一体何人いたことだろう。

医療のホスピタリティを考える上で
Eさんとの出会いは貴重だった。