搬送先のK病院で容態が急激に悪化した私。
4/7に運び込まれ、翌日4/8から入院。いきなりGICU(集中治療室)へ。
サッカーの日本代表監督・オシム氏が脳梗塞で
順天堂大学のGICUで意識不明という報道が流れているが
まさに当時の私もそうだった。
呼吸筋も攻撃されたため、喉を切開して人工呼吸器という
ギラン・バレーとしてはかなり重症患者の私は
GICUの一番奥で意識を朦朧とさせていた。
GICUとは一体なに?
そのまま日本語で読むと「ぎく」になる。
まさしく、まさかこんなに重症になるとは、ギク~である。
コミックだったら噴出して表現したくなるような状況だ。
一般的に手術後の患者が運ばれたり、私のような絶対安静の患者が安置される。
手術後の患者は、部屋の手前に、
そして症状の重い患者ほど、奥へ運ばれる。
オシム監督は、どの位置なのだろう。位置によって、症状の度合いがわかるそうである。
GICUは中央診療部門の一つで、
K病院は厚生労働省が認定する特定集中治療室4床を含む14床からなるそうだ。
集中治療専門医による専従医と、専従医の指導の下GICU研修医は各診療科と共に重症患者の診療に当たり、
看護スタッフは婦長、主任以下30余名の看護師とクラーク1名、看護助手1名からなるという。
特定集中治療室4床ではその基準に見合う勤務体制を整えているらしいから、
ERとはまた趣が変わった特別プロジェクトチームのようだ。
面会はできるが、時間が限られている。
GICUの前に小さなロビーがあり、
回復後、リハビリの訓練士の指導で初めて自分の足で訪れたときに
ロビーで座りながら不安そうに顔を見合わせている家族らしき人たちの表情を見た。
その表情に、秋田から上京した母や妹のことを重ね合わせ、思わず胸が苦しくなった。
秋田から上京した母と対面したのは、このGICUだった。
残念ながら私にはその記憶がない。
母は私を一目見て、もう命はないと悟り
その足で私が倒れた住まいへ行って、部屋から私の写真を見つけ
そのまま葬式用写真専門の店へ。
それだけ重症だったのだ。
回復してから、その葬式用の写真を見せてもらったが
菊池桃子に似ているといわれた20代の写真で
「年齢サギじゃん」
と文句を言ったら、逆に叱られた。
「本当に死んでしまうかと思ったのよ!!!」
ご心配をかけてすみません、母上様(__)
GICUでの私は母をはじめ
面会に来てくれた人たちの事を全く覚えていない。
朦朧として記憶がないのだ。
しかも夢ばかり見ていた。
大正時代にタイムスリップしたようで、
裸電球のある診療所で治療している。
しかも夢の中では、私の身体はすいすい、と動き
「仕事に行かなくちゃ」と外出の準備をしている。
重症になっても、仕事、仕事……
ワーカーホーリックだったなんて…赤面である。
好きな男性とのツーショットはないの?
(実際に好きな人がいなかったのは、人生最大の不覚!)
後になってから聞いたことだが、
GICUに入ってから3日からすでにリハビリが開始されていた。
PT(足の訓練士)が初めて私の身体をチェックしたときは
少し動いたらしい。
これなら、訓練しやすいかなと思ったのもつかの間
私の身体は急激に硬直した。
そしてそのまま、2ヶ月近く動けなくなり
看護士さんを始め
人様に助けていただけないと生きていけないような状況が続く。
そして
私の試練も始まった。
でも
そこからも見えてきた希望も、
さらに生きる意味も
見えてきた。