ながらくお待たせいたしました。

いよいよ療養生活に入ります!

ここからは本当の意味での試練の始まりです!

若干6歳にして親元から離れ数十人の中での集団生活が始まったわけです。

療養所に入った頃は、何も分からずただみんなの様子を伺いながら、療養所生活の規則に従い学校の寄宿舎のような生活が始まりました。


1日の流れとしては、まず6時起床!そして検温が始まります。

7時から朝食なので、動ける子供は洗面所に行き歯磨きや顔を洗います。

動けない子供はベット上で介助を受けながら朝の支度を済ませます。

動ける子供はプレイルームに集まり、食事を取ります。

動けない子供はベット上で配膳が来るのを待っています。

朝食が終わると皆集団で一斉にトイレタイムとなります。

それぞれ、トイレの行ける子供とベット上で排泄を済ませる子供で病棟内は糞尿の匂いが充満します!

その後隣接する養護学校に通います。

昼食の時間になると病棟に帰ってきて昼食を取り、午後からは機能訓練が始まります。

週に2回程入浴があります。

機能訓練は毎日あるわけではないので、何も無い日もあり、おのおの自由な時間を過ごします。

4時半には夕食となるのでそれまでに、各自食事の準備をします。

夕食が済むと6時から7時まで自習時間となります。各自予習復習などをします。

7時から9時までは自由時間となります。

それぞれTVを見たり、本を読んだりします。

就寝前に排泄を一斉に済ませ、9時に就寝となります。

これがかいつまんだ一日の流れでした。


 

俺は6人部屋の真ん中のベットで、そこが生活の場となりました。

同室の子供は皆俺より年上ということもあり、あまりかかわるこはなく、一人大人しく過ごしていました。

しばらくしてから唯一友達になった人がいました。

その少年は真向かいの病室いた中学生くらいの人でした。

いや、小学生くらいだったのか!?中学生だったのか!?はたまた高校生だったのか?

ただ当時の俺より体がかなり大きく見えたという理由でかなり年上に感じただけかもしれない・・・・

その人は耳が聞こえない話す事が出来ない聾唖の少年でした。

いつも向かいの病室で一人寂しそうにしていたその少年は、誰も友達がいないようでした。

そして完全に孤立していたように見えました。

その時俺は小学2年生。年齢差があるもののその少年が気になって仕方ありませんでした。

ある日勇気を出してその人に話かけてみました。

口の動きが分かるように大きく口を動かし


”友達になりませんか?”


口の動きを読んでいる事がわかっていたからです。

反応が返ってきました。


”あ~~う〜”

そして彼はニコッと笑いました。


その日から俺と聾唖の少年は友達になりました。


いつも一緒にいるようになり、一緒にTVを見たり、お菓子を食べたりしました。

そしてよく俺の面倒を見てくれるようになりました。

彼は”あ〜う〜”しか言えないのですが、こちらの口読みは出来ました。

俺はその”あ〜う〜”でなんて言っているのかだんだん分かるようになってきたのでした。

これで二人での会話がお互いに通じるようになり、俺達は兄弟のように仲良くなりました。

彼はアイコンタクトで呼ぶと必ず来てくれて、軽いジェスチャーをすると体を起こしてくれたり、車椅子に乗せてくれたりして俺の面倒をよくみてくれるようになりました。

彼は両足にギプスをしていましたが、歩行は普通に出来るし、体格も良く二枚目で顔立ちも男前だった!

しかし彼に対する看護婦さん達の評判は好ましいものではありませんでした。

気むずかしく、いつも俺以外の人にはかたくなに心を閉ざしていたのです。

”あの子は気難しい子なのにね〜”

と看護婦さん達は皆口をそろえて言い、俺たちの関係を不思議がっていました。



俺はと言えば・・・


やはり孤独だったのです。

孤独なもの同士何か通じあう物があったのかもしれません。


一年には長いお休みがあるけど、俺には関係なかった。

夏休みになればどの子も自宅に帰省して行きます。

しかし俺には帰る家がなかったのです。

俺の家族は俺がこの療養所に入ると程なくして群馬県の桐生市に行き仕事が無く、仕事を求めて千葉県に引っ越してしまった。


でもそれは高度成長時代の中ででエネルギー資源がそれまで石炭であったのが石油や電気に変わっていった。当然多くの炭鉱の採石場で働いていた人々は職が無くなる。


おれの父親も炭鉱の仕事をしていました。

新しい職を求めて今まで住んでた家を離れるしかなかったのです。


そんな訳で俺はたった一人長期の休みになると療養所に取り残される事になった。


母親から月に一度小包が届きました。

茶色い油紙で包まれた小包。中身はお菓子やオモチャといった物で、いつも手紙が添えられていました。

お菓子は駄菓子でパラソルチョコレートやさきイカ、都こんぶなどでいつも10種類くらい入れられていました。オモチャはロボットやリモコン式の怪獣などでした。

駄菓子は月に1回のペースで送られてきました。オモチャは3ヶ月に1回くらいの割合で送られてきました。

お菓子はほとんどが病棟の仲間に分けて食べてもらっていたし、オモチャもみんなで遊ぶオモチャとなりました。


添えられていた母親からの手紙には

” 元気でいますか? ”

” 寒くはないですか? ”

その他近況報告が書かれており、千葉での暮らしぶりを知らせるものでした。


一年後に小包と一枚の写真入りの手紙が送られてきました。

” 妹が生まれました ”   と手紙には書かれており。

赤ちゃんの写真が手紙に挟まれていました。


え〜〜! 妹? ”


驚きでいっぱいでした。

しかし俺は会う事も出来なかったし側にいない家族なので実感が持てませんでした。

”俺みたく病気にならないように・・・”



夏休みが来ると俺はなんとも言えぬさみしさがこみあげてくる。

みな帰る家があり家族がいる・・・・


そんな様子を見て看護婦さん達は俺を本当に可愛がってくれた。

我が子を育てるように・・・・

おれが大きく成長できたのは看護婦さん達のおかげだし本当に感謝している。


北海道の冬は長く厳しい。

窓の外も一面白銀の世界だし、療養所の中も壁は白く、あたり一面白い世界の中で俺は過ごした。

療養所から隣接する養護学校までは長い渡り廊下になっていました。

その廊下を車椅子に乗り自分で両手を車輪にかけて動かし進むのです。

足はほとんど動かないのですが両手はわずかに動かす事が出来ました。

しかし、あまり力は無くちょこちょこっと動かしては休み、ちょこちょこっと動かしては休み、長い廊下をかなりの時間を費やして渡り毎日学校へ通いました。

午後から行う機能訓練では ”いざり”というものを行いました。

お腹に何キロかの重りをつけ腕の力だけで両足をひきずって動くのです。

かなり長い距離をいざりました。

これはかなりきつかった!

しばらくすると、おしりにたこが出来ていました。

昔はまだ医学があまり進んでいなかった事もあり、筋力低下を防ぎ関節などの拘縮を予防する意味でなるたけ自分の力で生活をする事が推奨されており、こういった訓練は筋ジストロフィーの患者さんなどもやらされていました。

しかし今現在ではこのような訓練はやらないようになったみたいです。



冬がすぎれば春が来て夏が来る。

でも、一年を通して俺は外に出る事はなかった。

外に出る機会がなかったのです。

それは、熊が出るから!と周りから言われており!

めったに外には出れない雰囲気でした。


迎えに来て外の世界に連れ出したくれる家族はもう遠い所へ行ってしまっていた。


何度か友達の家族に連れられて外食に連れて行ってもらった記憶もあるが、なんとなくおぼろげにしか覚えていない。

もう40年以上前の話です。


入院した日の写真!

真ん中が俺!右隣が弟!

おそろいの服を着せられている。

北海道で別れる 最後の家族写真

この後家族みんなと再開するのは5年後となります。

こちらは療養所での機能訓練の様子です。

お腹に1kgの砂袋を乗っけて呼吸訓練 !

両足首に500gずつ重りを付けての手足の運動 !

畳のうえでのいざり移動を30m !

この訓練を行う意味が本当にあったのかは疑問ですが・・・

同級生の女の子!

何故かおそろいの服をきせられています!

この子とはそののち数十年後に劇的な再開をするのですが!

それについては後にまた改めて語っていこうと思います!


次回は引き続き北海道での療養暮らしの様子について語っていこうと思います!


読んでいただきありがとうございました!

また次回お楽しみに!


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