東北の農村でくそ寒い冬の日に囲炉裏で語られる一度も負けなかった将軍。
立見は師団夜襲という世界戦史上類まれな戦術を実行します
【ちょっといい話番外編】
よく考えてみると日本の軍隊が欧州人の目を見張らせるほど強かったのは
立見尚文のような正規の軍人教育を受けなかった将校たちが幅を利かせていたころまでで、
欧州のコピーでつくった士官学校と海軍兵学校の出身者で指揮官を固めるようになったあとは、
役人根性むきだし、というか、あとの霞ヶ関の上級試験と同じで
士官学校の入校時の成績が退役するまでものを言う軍隊というガッチンガッチンの官僚組織のなかで
縄張り争いや繁文縟礼の言い合いに勝った「要領のよい」ものだけが生き残ってゆく
「近代化された軍隊」になってからは、他国に聞こえるほど役人根性がしみついた軍隊になって、
日本のひとがいま考えるよりはずっと弱い軍隊だったように見えます。
今日の名将は、知る人ぞ知る日本陸軍最強の人物を取り上げたいと思います。結論から申せば、
このおっさんは、薩長閥に入っていれば、もっと日の目を見た人であることは確かです。
彼は1845年8月21日三重県桑名で生を受けますが、桑名藩は陸奥白河藩から転封された藩である為、
士族言葉は東北弁でした。この為、立見尚文も関西人なのに東北弁しか話せません。
さて、幕末動乱のときの立見尚文は鳥羽・伏見の敗戦後、
桑名藩の軍制を建て直し洋式歩兵訓練を藩士を率いて雷神隊を組織して、
東北地方を転戦、官軍部隊をゲリラ戦術で散々に翻弄し時には壊滅させる戦功を上げます。
しかし、奥羽列藩同盟も庄内藩の降伏により瓦解、立見尚文も野に下ります。
しかし、鉄と火薬の匂いはこの男を離そうとしませんでした。
数年経つと明治新政府内で士族の反乱が相次ぎ、新政府軍は、薩摩軍の切り込みにビビッテ戦になりません。
そこで、立見尚文がまたもや登場します。ここで、彼は歩兵連隊を率いて、九州を転戦し、勇名を馳せます。
続いて日清戦争でも1個旅団を率いて活躍します。