中川昭一氏を失ったことがどれだけ大きなことであったのか気づく日がいずれ来るだろう…そして今 | 今日の嫌韓・嫌中の極秘・情報と、安倍さん麻生さん応援!

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マスコミに妨害され続けた故・中川昭一氏の政治姿勢と政策

「2009/10/06 中川昭一氏を失ったことが、どれだけ大きなことであったのか気づく日がいずれ来るであろう。」……そして今


 

故・中川昭一氏の政治姿勢

 

・中川氏は、農林水産大臣としてポジティブリストを導入し、中国等から無差別に輸入される毒野菜に一定の歯止めをかけた。 

・中川氏は、財務大臣として金融援助をIMFに一本化し、韓国やアイスランドなどから申し込まれた二国間融資は全て断った。 

・中川氏は、政調会長として、自民党内の人権擁護法案推進派の意見を断固として撥ね付けていた。 

・中川氏は、拉致問題に早くから取り組んできた政治家の一人であり、拉致議連の会長もつとめた。 

・中川氏は、経済産業大臣の時、親中派の二階俊博が打ち出した「東アジアEPA(経済連携協定)」構想に異議を唱えた。

・中川氏は、毎年靖国神社に参拝することも欠かさない。 

・中川氏は、非核三原則の堅持は当然”としながらも日本の核武装の是非について繰り返し“論議すべし”と言及した。 

・中川氏は、日教組に対し「日教組の一部活動家は(教育基本法改正反対の)デモで騒音をまき散らしている」「(デモという)下品なやり方では生徒たちに先生と呼ばれる資格はない。免許剥奪だ」と、その活動を強く批判している。 

・中川氏は、官憲(役人、特に警察関係)による慰安婦募集の強制性を認めた1993年の「河野談話について早期に見直しを検討・すべきだとの考えを示した。 

・中川氏は、中国の脅威に対抗するために、インドやオーストラリアとの連携を促進するための議員連盟「価値観外交を推進する議員の会」の旗揚げに貢献した。 

・中川の勉強熱心は有名で、官僚にとっては渡した原稿をそのまま読んでくれない、扱いにくい大臣だったとのこと。 

 

中川昭一氏の声

選挙が終わって―『十勝・日本が危ない』  平成21年9月14日 中川昭一が語る 

私の選挙が終わった。多くの人々が仕事、家庭、お盆を犠牲にして私の為に戦ってくれた。選挙区外からも大勢の人々が駆けつけてくれた。そして、それぞれの選挙運動を一生懸命やってくれた。朝6時頃、選挙事務所を飛び出して行く人たち、一日中車のハンドルを握ってくれた人たち。毎日毎日運動靴を履いて、雨や汗にまみれながら、一軒一軒「お願い」に行く人たち。相手から怒鳴られたり、泣かれたり、また励まされたり・・・・。皆、事前から危機を共有していたのでエネルギーは質・量とも感動的だった。全国から毎日たくさんの激励・応援の手紙やメール等々も頂いた。事務所の何枚もの大きなボードに掲載したが、どんなに励みになったか。

 それでも負けた。活動してくれた人々、約9万人の支持を考えると誠にありがたい。かつ申し訳ない。悔しい。しかし、十勝の総意として、私は否定された。敗因は逆風もあったが、やはり私自身の報道問題と、私が訴え続けたこのままでは「十勝が危ない」「日本が危ない」が有権者に受け入れられなかったことだろう。

 選挙中、周りの人からは

「あまり民主党を攻撃するな」と言われた。もちろん自分の主張はしたが、マスコミは既に我々の敗北が決まった様な報道をしているので、そうなれば「大変なことになる」と訴えざるを得なかった。 注:「バンドワゴン」や「カード・スタッキング」などの具体的なマスコミの手法なども紹介しつつ、巧妙なマスコミの罠の正体に迫る。

「泣け」とか「土下座しろ」というアドバイスもあったが、私には出来なかった。

この間2度公開討論会があり、「これが選挙のあるべき姿だ」と思い大変重視したが、全く「討論会」にならなかった。

 形式的で3人で1時間半しかない。入場者も議論に参加した、候補者が主役で、候補者の主張の違いが明確になる「朝まで討論方式」でなければ意味がない。12日間、大音量で連呼を続け、人々と動物等に多大な迷惑をかけた。改めて「全ての十勝」に感謝と御礼の気持ちでいっぱいだ。


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