25円の天丼

 
渋谷の百軒店の奥だったか、円山町の裏だったかに、すすけた小さな食堂があった。硝子引戸には、天丼、カツ丼、親子丼、定食などの張り紙がベタベタ貼ってあった。
天丼25円!(ラーメンが30円か40円だった)安い!
私はその店の前を行ったり来たりしていた。
そのころは円山町の四畳半のアパートに友人と住んでいた。畳一畳千円だった。
友人は上野の聚楽のレジをしていたので、店にいるときはまかないを食べているのだった。
「きょうは何がでたの?」と私はしつこく聞くのが日課だった。
私の胃袋ときたら、慢性空腹のペシャンコで、そのかわり頭の中は食べ物ばかりがはちきれそうになっているのだった。
天丼。天丼。頭の中では天丼が三段構えでグルグルまわっていた。
なぜ天丼かといえば、神保町の勤め先の並びに、大繁盛している蕎麦やがあって、昼時にはサラリーマンたちがひしめきあって、人気の天丼とか天そばを食べていたからだった。
すっかり表戸を取り払っているので丸見えだった。
みな一心不乱で丼に向かっている。「天丼一丁」「天そば三丁」威勢よく店員さんが調理場に声を張り上げる。
その丼が、並の大きさではないのだった。サラダボールか洗面器(赤うるしの色をしていた)ほどもあって、更に大きなえび天が、二匹も、両端どころか全身を完全にはみ出させて乗っかっているのだった。
私は毎日その店の前を通って、コロッケつきコッペパンを買いに行ったので、頭の中で注文した天丼がどんどん増えていった。
私はうっとりと夢想した。特大えび二匹と、たれのたっぷり染み込んだご飯を、最後の一粒まで食べるしあわせを、何度も何度も。
そういうわけだから、どうしても天丼を食べなければならないのだ。
 
私はついに勇気をふりしぼって硝子引戸をあけた。
思いがけない大きな音がした。
カウンターの労務者ふうのふたりの男と、カウンターの中のおばさんがいっせいに振り返った。
私は頭の中がグァーンとしてきて、カチカチになって椅子に腰掛けた。
「てんどん、ひとつ」声がかすれた。
おばさんは無表情でうなずいた。
25円の天丼がきた。
平べったい魚の天ぷらと、ナスだかなんだか野菜の天ぷらがひとつ、ご飯の上にのっていた。
やたら衣が厚ぼったいのであった。
私は丼の中を睨んで食べた。
カウンターの男とおばさんがチラチラと見るので、味のことは全く覚えていない。
不思議に失望しなかった。25円の天丼。私は納得したのだった。
 
その店にはそれきり行かなかったし、神保町の天丼も一度も食べないまま青写真やを辞めてしまった。
昭和四十年ちょっと前のころのことである。

 

 

海ふみこ 2012.7.24

結婚式の朝

 
その日は私の結婚式をあげる日だった。
 
ふすまを取り払った離れの客間で、早朝から来てもらった美容師さんに衣装の着付けをしてもらっていた。
部屋にはパートのおばさんが三、四人、壁を背に座っていた。おばさんたちは夜中じゅうかかって、杉の折箱にのしがみを敷き、巻き寿司や飾り寿や、いなり、餅菓子などを詰める仕事をして、朝方終えたばかりだった。その日は大安吉日だったのだろう。祝いの「仕出し寿司」が何百も注文があって、おばさんたちはそういう日にはいつも夜中から仕事に来ていた。もう帰っていいのだけれど、きょうは花嫁さんの仕度を見学してから帰ろうと決めたわけなのだった。
 
父が仕事着からモーニングに着替えて顔を出した。
おばさんたちは口々に、
「ダンナさん、きれいなお嫁さんに仕上がりましたのう」
と言うので、父は目のふちを赤くして嬉しそうにいちいち頭を下げるのだった。
姉は先ほど留袖を着てチラと顔を出した。母は離婚しているのでいない。
 ところで美容師さんは必死の形相だった。若くてまだ慣れていないふうだった。真面目な顔つきで一生懸命だった。
仕度を終えるころ彼の弟が花嫁の私を迎えにくる。歩いてすぐの嫁ぎ先に、弟に連れられてタクシーに乗って行くのだ。彼の家の前には家族が待っていて、彼の母親は私の手をひいて向こう三軒両隣に挨拶に回る。それが終わったら、玄関の前で杯を床にたたきつけて割ってしまう。これで実家とは縁をきって、たった今からここの家のものになったという証なのだった。それから家の中に入り、仏壇に手をあわせてから、みなこぞって「何なに会館」に移動し、神前の式と披露宴を行うというのがその地方のやりかただった。
 
おばさんたちは身内の祝い事のようにはしゃいでいる。若い美容師さんの手順を凝視しては何かと口をはさむ。
「あら、そこはこうじゃなかったかいのお?」
「アンタ、昔とは違うんでないか?」
「ほやろか? どうも違ってる気がして仕方ないが」
「ほんなこと言うたら美容師さんよけい間違うが」
そして三人して大声だして笑うのである。
美容師さんはだんだん無口になり焦っているのがわかる。
おばさんたちのおしゃべりは果てしがなかった。どこそこの嫁さんの婚礼道具はたいしたモノだった。あそこの娘さんは残念ながら色黒で白粉のお面を付けたみたいだった。こないだの嫁さんは顔がでかくてかつらが浮いていた。そういう会話を声をひそめたり、笑いをこらえたりしながら絶え間なしに喋るのだった。
私は夕べ一睡もしていない。頭痛もしている。おばさんたちの声はしだいに神経をチクチク刺してくる。イライラがつのってくる。無神経なおばさんたち。おしゃべりなおばさんたち。かわいそうな美容師さん。オロオロと様子を見にくる父。
私は心の中で叫んでいる。
誰か、お願いだからおばさんたちを黙らせて。誰か、おばさんたちを追い出して。うるさいと怒鳴ってくれ。やめてと怒鳴ってくれ。
 
私たちはきょうやっと夫婦になるんだ。 
それなのに、それなのに、私は意外なことを心の中で吐いている。
今さら式なんて! もう二年も同棲してるんだ。
式が終わったら東京のアパートに帰るんだ。何も変わりはしない。身ひとつで式に帰ってきただけだ。
彼の両親は今だにこの結婚に反対なんだ。
「あんたんとこの娘を嫁にもらう気などなかった」
こないだ面と向かってそう言われたと姉は怒っていた。
けれど商売上、式だけはあげないわけにはゆかない。長男であることを披露しないわけにはゆかない。形だけでも体裁を整えなくてはならない。そういう結婚式のため、私は貸衣装を着付けてもらっているわけだった。
 
美容師さんはしきりと時計を気にしだした。
私は下を向いて立っていて、重たい衣装にふらつきながら、もう嬉しいんだか悲しいんだか分からなくなってきた。みじめな気分と頭痛と腹立だしさと、なぜだか悲しみまでが黒雲のように湧いてきて胸を圧迫した。私は苦痛にあえいだ。
 
そうして突然私は泣き出してしまった。
ダムが決壊したみたいにいっきに涙があふれ出た。
「ヒィー、ヒィー、わーん、わあーん」
もう歯止めがきかなかった。
 
おばさんたちはあっけにとられてポカンとして私を見ている。
美容師さんも驚き、父は駆け込んできてオロオロし、私の化粧した顔はグチャグチャになった。
 
ああ、なんという日だったろう。
私の結婚式の日の朝はこんなふうだったのだ。

 

海ふみこ 2012.8

 

 

私の住まいは古い団地の1階です。
こないだまでは4階でした。
エレベーターが無いのでシンドイ! こんなことだと引きこもりになってしまうのではないか!
だって私はとびきり出無精なんです。
 
それで、思い切って1階に引っ越したら大正解でした!
ゴミ出しの楽なこと! 散歩もルンルン♪
しかも窓をあけて手を伸ばせば草木に触れることもできそう!
すぐとなりは小さな公園だし。
ああ、いいなあ~ 
ソファーに寝そべって草木をぼんやり眺めていると、まるでリゾート気分になっちゃいます。
しかし、これにはコツがいります。
 
「視野は狭く、想像は果てしなく」
これがコツです。(私の得意)
 
緑の草木と地面だけに視線をこらし、広々した森や林や草原を想像するのです!
ほらね!
高原に来てる気分でしょ!
おおハッピー!
 
想像に飽きたら、お仕事することにしましょ!
狭い仕事場だなあ~ですって!
 
「視野は狭く、想像は果てしなく」
ほうら、立派な仕事場に見えてきたじゃありませんか!
 
海ふみこ 2011.8.6
 
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