次の記事は、何か前向きになれるものが良いな、ということで、

齋藤飛鳥センターの23枚目表題曲・「Sing Out!」について。

 

24,25,26枚目が発売され、それぞれのシングルが担った役割を知った今となっては

このSing Out!が1期中心(白西飛鳥時代)の乃木坂の集大成的楽曲だったのだな、と感じます。

 

●詞について

・グループとしての成熟

表題曲の歴史を辿ると。

一番最初は、カーテンの中で内緒話をしていた。

かつて透明人間と呼ばれていた”僕”は、君によってやっと影を見出してもらえるような人間だった。

一定の成長を見せた2015年、それでも”僕”が今話したい誰かは、まだ君1人だけだった。

たくさんの時が流れて、そんな”僕”は自ら愛を語り、目の前に見えない無数の誰かのところにまで、愛を届けようとする側の人間になった。

 

それは”僕”の成長であり、そんな”僕”を唄えるようになったという彼女たちの成熟を物語っていると思います。

2010年代前半の乃木坂がこの曲を歌ったとしても、説得力はまだ持たせられなかったでしょう。

 

またこの楽曲の主人公は自らを「僕たち」と称します。

1人ではなく、君と僕の2人きりでもなく、僕「たち」と呼べる無数の仲間がいる。

そのことに、”僕”自身も最初から自覚的になれている。

 

曲が流れ始まる前から、詞を読んだだけで彼女たち個人が、またグループ全体がこれほどにまで成熟したのだということを感じさせてくれます。

 

 

・齋藤飛鳥が歌うべき歌

乃木坂の内輪向けに留まらない、普遍的な愛を語る歌でありながら、同時にこの曲はセンター・齋藤飛鳥への宛書きでもあると感じます。

 

この曲のリリース当時は飛鳥がまだ”次世代”エースと呼ばれていた頃のこと。

楽屋でいつも1人だったり、あまり群れたがらなかったり、孤高の人にも見えました。

そんな彼女にこの詞は「孤独は辛いよ」、「一人ぼっちじゃないんだよ」、「仲間の声が聞こえるか?」と教え諭しているようです。

 

この言葉は本人の心にも刺さったのでしょう。

この頃から飛鳥は「最近、ちゃんとみんなとしゃべろうって決めた」と語っています。(BUBUKA2019年7月号より)

そこから彼女がどう変化していったかは、今の私たちが見ての通り。

 

 

もし泣いている人が どこかにいても

理由(わけ)なんか聞いたって意味が無い

生きるってのは複雑だし そう簡単に 分かり合えるわけないだろう

ただじっと風に吹かれて 同じ空見上げるように

一緒にいてあげればいい

 

ここも飛鳥っぽさを感じます。

泣いてる人がいたとして、例えば真夏だったら、高山だったら、「意味が無い」とは言わなさそうです。

「シンクロニシティ」(白石麻衣センター)では、

自分が泣いていたら、「少しだけこの痛みを感じてくれないか?」

泣いてる人のために「僕もそっと涙を流す」と。もう少し他者に求めているし、能動的なのですよね。

でもSOではそうではなくて、より現実的で、他者に期待しすぎないところに”ぽさ”を感じます。

 

 

飛鳥に宛書きしたと明言された「ジコチューで行こう!」は”コレじゃない”感ばかりありましたが、

「Sing Out!」に宛てた歌詞は、これしか無いだろうと思えるほど、このタイミングの彼女に贈る言葉として相応しいものだったと感じます。

 

そんな理由で、Sing Out!は齋藤飛鳥がセンターでなければいけない楽曲だと私は思います。

 

 

根底の世界観をブレさせずに、グループの成長過程、センターが克服すべき課題を描き続けていると捉えるならば、

1人の作詞家が詞を書き続けることにも意味はあるのかと感じさせられます。

 

 

・ここにいない誰かのために

これは作詞家の意図とは明確に異なりますが。

標題の歌唱パートを担う一人が久保史緒里。

23枚目、本当はそこにいるはずだった、けれどもそこに居なかったメンバーが山下美月。

盟友・久保が「ここにいない誰かのために…」と台詞を語ることで、この”誰か”とは山下のことだったのかとも思えてきます。

そのような解釈が自然と出来てしまうのもまた面白いところです。

 

蛇足ですが、何かと登場人物の心情が捉えづらい24th「夜明け」MVで、山下美月には明確に「帰ってくる者」の役割が与えられていました。

映像ではかなり躊躇した挙句、「やっぱり戻らなきゃ…」となるのですが、彼女が「休業するくらいなら辞めてやる」という心境だったと知ると、

この描写への納得感も増してきます。

 

 

●MVについて

 

とにかく美しい。”かわいい”という言葉が失礼だと思えてしまうほど。

 

初めてながら見をしたとき、ダンスだけの動画と思ってしまいましたが、違いますね。

ダンスもTVパフォーマンスとは違う、このMVのためだけに準備されたもの。

寧ろ、ただ踊ることだけで、物語を、感情を伝えようとした、ひたすらにストイックな作品だと思います。

 

振付師・MV監督は共にシンクロニシティと同じ、それぞれSeishiro氏、池田一真氏。
「シンクロニシティは、明るい中で影を撮り、儚さ、刹那的な偶然を示した。

Sing Out!では逆に闇の中で光を撮り、人の生々しさ、現実感を表現している」と。(監督インタビューより)

そう言われると、2曲のMVは見事に対照的な構図になっています。

 

1番。スポットライトに代わる代わる映し出されるメンバーは、「ここに居ない誰か」の”個”のそれぞれの人生を。

2番では、スポットライトの中に入って個どうしの交わりを表現しているようです。

台詞こそないけれど、どこか演劇的。

 

2番サビのエキストラを含めたダンスは、ただただ見惚れてしまいます。

 

そして間奏。

表題でこれだけ長いソロダンスが挿入されるのは、初めてのことでしょう。

通常の振り入れが1~2日前だったところ、齋藤飛鳥は自ら志願して、10日前から振り入れに入ったと言います。

そんな飛鳥の舞い。MVだと分かり辛いけれど、メイキングやバスラの映像を見ると、確かに彼女は「笑って」いるんですね。
 

サムネにもなっている、演台の上での最後のSing Out!のシーンは絵画的な美しさであり、壮観。

 

女性の強さを表した、素晴らしき人間賛歌だなと感じます。

 

●パフォーマンスについて

TV用のパフォーマンスについて。

1番の「ここにいない誰かのために」のスーパー史緒里タイム(?)も良いのですが、

個人的に一番好きなのは終盤の「知らない誰かのために~」の箇所。

 

道に迷いかけた飛鳥が、手を伸ばして助けを求める。(それが出来るようになったのも、1つの成長)

それに気づいた白石・生田が「こっちだよ」と連れ戻しに来る。

「ひとは皆弱いんだ、お互いに支え合って」の歌詞で集まってくる仲間たち。

落ちサビで飛鳥の歩む道を照らし、励まそうとするメンバー。その先頭で待つのが白石・生田。

(あとちょっとだけね)と云うかのように、ほんの束の間飛鳥を従えて2人が先頭で踊ります。

そして、(さあ、アンタの番だから)と中央を空け、飛鳥が出てきて最後のフィナーレを迎える。

そんなふうに私は読み取りました。

 

22名の大型選抜の中で、白スカートをあてがわれたのは白石・生田の2人のみです。

衣装班が趣味や気まぐれでそうしたというよりも、明確な意図をもってのことだったのだろうと考えたくなります。

それを解釈しようとするならば、やはり「飛鳥の前を歩む者」ということなんじゃないかなと感じます。

2人に絶対的な頼もしさ感じさせるとともに、もう2人しかいないんだ(21/3時点ではもう1人しかいない)ということも伝えてくれます。

 

 

・レコード大賞でのパフォーマンス

個人的なベストパフォーマンスは2019年末のレコード大賞での披露です。

スカートの舞いまで含めてパフォーマンスなんだということを完璧に理解したカメラワークが素晴らしい。

そして、先述の「ここにいない誰かのために」パート。

生田絵梨花は毎回飛鳥の方を見つめるのですが、いつも一方的。

ただ、(私が見る限り)このときだけは飛鳥が応えて、回転する一瞬だけ笑みを浮かべていました。

1年で恐らく最も緊張するであろうこの舞台で、無言の会話が成立していたことにただただ凄いなと驚きを覚えたのでした。

 

 

・新たな解釈

「ここにいない誰かもいつか 大声で歌う日が来る」

これらに表される歌詞、また楽曲の力強さに、「まるで2020年以降の世界を歌い、励ましているようだ」と、ファンはまた新しい解釈を持ち始めるようになりました。

そんな楽曲を2019年の時点で持っていたことを、誇りにしても良いんじゃないかな。

 

 

 

…これだけ文字数書いて、1点のケチも付けていない。

褒め過ぎでしょうか?いや、良いでしょう。お気に入りの曲なので。

 

詞も曲も、MVも、振り付けも、演者も、皆が同じ一つの方向を志向しているからこそ、心地良い。

アイドル曲でここまで表現出来るんだ!というのを教えてくれた楽曲です。