山口心霊スポット
    No.17. 錦帯橋



   概要


錦帯橋は、山口県岩国市の錦川にかかる5連の橋。日本三名橋に数えられ、豊かな自然を背景として、国の名勝に指定(上流・下流を含む地域)されています。
 1673年、「流されない橋を」との願いのもと、知恵と技術の結集により創建。川幅約200mを渡すその構造は、精巧かつ独創的。そして美しい姿を誇ります。
 創建以来約350年を超えて、錦帯橋の技術と美しさは、今もなお守られ続けていますびっくりマーク







歴史


⬛︎戦国から秦平へ

関ヶ原の戦いで敗れた西軍に属していた吉川家は、出雲国等14万石から岩国3万石へ移封となりました。まだ、いつ戦になってもおかしくない緊迫した時勢です。初代領主・吉川広家は、横山を政務の中心に定めます。それは、錦川を挟んで山を背負う地形が、防衛にも有利だったからです。
 錦川により分断された城下町を繋ぐため、早くから橋が架けられました。しかし、洪水の度に橋は流失していました。
 やがて幕藩体制がととのい、平和な時代が訪れると、「流されない橋」を架けることが、岩国領の悲願になりました。




橋の着想と創建


3代領主・広嘉は橋の研究に取り組みますが、解決策は容易には見つかりません。
 ある時、広嘉は明の僧・独立から、名勝・西湖の本を入手します。そこには、5つの小島を繋ぐ6つのアーチ橋が描かれていました。これにより広嘉は錦帯橋の着想を得たと伝わりますびっくりマーク
 それは、錦川に4つの橋を築き、それらを5つの橋によって繋ぐというもの。これを実現するため、戦国の世に培われた土木・建築技術に加えて、更なる研究が重ねられましたびっくりマーク
 そして1673年、着想と技術が実を結び、錦帯橋は創建されました!!



西湖遊覧志』の挿絵
西湖(中国)の島々を渡る橋の絵に、広嘉は錦帯橋の着想を得たと伝わります。(所蔵/岩国徴古館)





3代岩国領主 吉川広嘉
(1621-1679)錦帯橋を架橋。



時代を渡る橋


創建の翌年、錦帯橋は洪水に伴う橋脚の崩壊によって、流失してしまいます。しかし、すぐに復旧に取り掛かり、年内には再建工事を完成させました!!
 その後は、修復と架け替えを重ねながら、長い間、人々の往来を支えてきました。1950年には、台風により流失してしまいますが、市民一丸となった取り組みにより、再建を果たします!!
 こうして、錦帯橋は時代を渡り、今もなお、同じ場所に、同じ姿で在り続けています!!

~意 匠 ~

 1699年のものを最古とする江戸時代の12枚の図面と、近代以降の実物大「型板」の存在。

これらは、錦帯橋のデザインが350年以上の時を超えて受け継がれていることを証明しています。

~材 料 ~

 主要構造材にはマツやケヤキ、化粧材にはヒノキ等の腐食しにくい材を使うなど、木材の性質や経済性、調達可能性に応じた素材選択が行われています。

~技 術 ~

 写真や動画が発達する前にあっても、架け替えを契機とした度重なる作図により、架橋技術は伝えられました。
これにより、創建時と変わらぬ姿の錦帯橋が現存しています。

~位 置 ~

 近世の古地図を検証すると、錦帯橋の位置が現在まで変化していないことが分かります。また、過去の架け替えの記録からも、その位置に変化がないことが読み取れます。

『錦帯橋掛替図面』(1699年)現存する最古の錦帯橋図面 所蔵/岩国徴古館



年表

1600 慶長 5関ヶ原の戦い
吉川広家、岩国3万石を拝領
1664 寛文 4吉川広嘉が『西湖遊覧志』をみて、錦帯橋のアイデアを得る
1673 延宝元錦帯橋の創建
1674 延宝 2洪水により流失
再建
1677 延宝 5錦帯橋周辺の河床に捨石をして、敷石を補強
1699 元禄12現存する最古の図面が描かれる
1871 明治 4廃藩置県
1922 大正11国の名勝の指定を受ける
1943 昭和18名勝区域の追加指定を受ける
1950 昭和25キジア台風により錦帯橋流失
1951 昭和26昭和の再建開始(1953 昭和28 完了)
2001 平成13「平成の架替」開始(2004 平成16 完了)
2021 令和 3「錦川下流域における錦帯橋と岩国城下町の文化的景観」が重要文化的景観に選定される

明治期の錦帯橋(錦帯橋より下流の山から撮影された写真)。左に横山の町並み。住居がまだ土手沿いにあるが、錦帯橋は現在と同じ位置に存在している。

明治31年 架替工事

昭和25年 台風による流失


平成13年 架替工事 桁組