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自分世界探検家のブログ

人はみんな自分の信じていることに基いて、全てを解釈しています。
だから、全ての人がそれぞれ自分の世界に住んでいるとも言えるでしょう。

ぼくはぼくの世界を探検しながら、気付いたことや発見したこと、気になったことなどをここに記録しています。

安心安全は変化の中でこそ実現可能だろうということを書いた。

と言っても、これはぼく個人の気付きであって、他の人に当てはまるかどうかは分からない。
自分の仕組み、自分がどう考えどう動いているか?はそれぞれの個人が自分で気付いて行くべきことだと思う。

ぼくはぼくの表現方法でしか、つまり自分の方法でしか表現出来ない。

ぼくが気付いたこと、考えたことが概念だとすると、概念を言葉や絵などに翻訳してしか表現出来ない。

つまり、ぼくというフィルターを通した状態でしか伝達出来ないと言えよう。

 

だから、どんなに正確に表現出来たとしても、純粋な「ぼくの気付き」では無いのだ。

これは全ての情報伝達について言えるだろう。

 

伝達者の中には純粋な概念が在ったとしても、

それを伝達する段階でどうしてもその伝達者のフィルターがかかってしまうと思う。

 

では、伝えること自体に意味が無いのか?と言えばそうじゃないだろう。

伝達者の表現を受けて何かを感じるのであれば、それは受け取り手にとって何か意味があるんだと思う。

受け取り手の中の気付いて欲しい何かが反応してサインを出している、それが感じるということだと思う。

 

「受け取り手の中の気付いて欲しい何か」が伝達者の伝えたい事とは違うことは有り得るだろう。

でも、受け取り手にとって大事なのは受け取り手にとっての気付きで、

伝達者が気付いたことを知ることよりもそっちの方が大事だと思う。

 

「受け取り手の中の気付いて欲しい何か」が伝達者の伝えたい事と同じだとしたら、

気付きが伝達されたと言うよりは、

伝達者の表現を受けて、それをきっかけにして受け取り手も気付いたんだと思う。

 

伝達者の発信の内容がどうしても納得出来ない、引っかかる、気になってしょうがないという場合は、

その情報に浸ってみると良いかも知ない。言われなくてもそうするだろうけど。

同じ本を何度も読んだり、同じ伝達者の発信した情報に沢山触れることで気付きが得られることがある。

この気付き以降、その発信者の発信に興味が無くなったりする。

こういう気付きは発信者の伝えようとした「純粋な概念」と同じなのかも知れない。

 

いずれにしても、必要な時に自分に必要な気付きはやって来る気がする。

自分の気付きは自分で気付くしかないと思う。