安定安心は不変とは関係無いということを書いた。
安定や安心という状態は定常状態だというのは思い込みだと思う。つまり思えに過ぎないのだ。
例えば、立っているとき。
自分がいる場所は、硬い平地で見渡す限り遠くまで真っ平で、というのが安定だろうか。
その周辺の地形や、どこに何が潜んでいるかを熟知している、というのが安心かな。
しかし、その安心と安定を求めるなら、自分がその安定安心の状態で居続けるためには、その場所に留まらなければならない。つまり移動できない。
人生もこれと同じかな?と思う。
安定、安心のための範囲をより広く取れば取れば取るほど安定、安心はより強固になるだろう。
しかし、そのレベルの安定、安心が必要だとなってしまうとそこから移動することが難しくなるだろう。
安定、安心のために求める範囲を狭くしていけば、最終的には自分の立っている範囲が確保出来れば良いというところまで許容出来るかも知れない。
そうなったら、都度、立っている場所が確保出来るならば、移動出来るようになるだろう。
しかし、安定安心の度合いで言えば、あまり強固では無いかも知れない。
これが一つの考え方。
別の考え方としては、視点を変えるというもの。
より視点を高く持って、自分の周囲数百メートルが見渡せるとしたらどうだろう。それだけで安心は確保出来る。
それどころか、この世界には自分に危害を加えるようなものは存在しないと分かれば、かなり安心出来るだろう。
安心できないのは、自分の身に危険が訪れるかも知れないと思うからだ。
その考えさえ無ければ、敵が居たとしても安心して居られるだろう。
つまり、安心とか安定ということを考えない、気にしないとうっことだ。
ここで言っている安定も安心も、二元論が前提だ。
安定に対して不安定、安心に対して不安が存在するという考え方だということ。
それが前提なのだけど、その前提をいちいち表明していないだけ。
だからその前提を行け入れない、と言うのが別の考え方だ。
つまり、最初から世界を信頼してしまうのだ。
この世界は最初から安定していて安心なんだと、
あるいは、不安定で不安でしかあり得ないと決めてしまう。
二元論だから迷ったり悩んだりするのなら、どちらか一方しかないと決めてしまう。
そうすると悩めなくなる。
実際そう簡単にはいかないけど、理屈の上ではそう言えると思う。
実際にそう信じてみようとすると、信じられないというところで困る。
ぼくはここに人生の秘密gあるような気がする。
どう信じるか?で人生は変わって来るんじゃないかと思うのだ。
何を信じているか?が人生を左右するようだと思い始めている。