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自分世界探検家のブログ

人はみんな自分の信じていることに基いて、全てを解釈しています。
だから、全ての人がそれぞれ自分の世界に住んでいるとも言えるでしょう。

ぼくはぼくの世界を探検しながら、気付いたことや発見したこと、気になったことなどをここに記録しています。

持病が悪化している。

病状が悪化したり新しい病状が出るかも知れないということが怖くてしょうがないということを書いた。

何も手に付かないけど、何かしていないと気が気じゃないので、

テレビを観たり、本を読んだり、散歩したりしている。

ブログを書くと自分の中の恐怖と向き合うことになって辛いかも知れないと思って避けていたが、

こうやって書いてみるとあまり嫌な感じも無く結構書けると感じている。

ぼくが今書けるようなことはあまり気分の良いものでは無いだろうし、他人に伝えたい情報も無いけど、

恐怖から距離を置くには、そういう作業が有効のようだと感じる。

 

さっきまでドラマも観ていた。

観ると言うよりも点けっぱなしにして、時々横目で眺める程度だけど。

とにかく観ていたのは殺人事件のドラマだ。

 

殺人なんて完全にドラマの中の架空の話としてしか受け止めていないのがほとんどの健康な人の対応だろう。

 

しかし、今のぼくは恐怖に振り回されている状態なので、感性がいつもと違うようだ。

 

どうして殺人なんて犯すのだろうと、という視点で観ていた。

 

追い詰められた犯人の心境、恐怖を思う。

今ぼくが感じている恐怖、病状の悪化によって自由が無くなっていく恐怖に共振しているように感じながら観ていた。

すると、犯人が捕まらないように別の人を殺したり積を重ねる様子を、いつもとは違う感じ方で捉えていた。

ドラマだからとか展開上面白いからといった理屈で考えるんじゃなくて、実際のこととして考えていた。

こんなに愚かな行為を本当にしてしまうとしたら、その原因は恐怖に違いないと思った。

 

恐怖に駆られて、というヤツだろうか。

恐怖から逃げたくて、ということは恐怖に飲み込まれるとか振り回されている状態だろう。

こうなると、冷静な判断は出来ないだろうと今は思える。

 

冷静な判断というのは、道徳や倫理に基く判断だと思うけど、

恐怖はそれらの判断基準は吹っ飛ばすようだ。

 

吹っ飛ばすのは道徳や倫理だけじゃなくて判断基準そのものかも知れない。

判断基準が恐怖から逃げるために有効かどうか?だけになってしまうのかも知れない。

とにかく普通の自分ではなくなってしまうのだと思う。

そうなると、その人が日常見せている人格は関係無くなるのかも知れない。

ずっと表に現れていなかった、恐怖に駆られた人格のようなものに乗っ取られるので、

まるで別人格になる人も居るんじゃないだろうか?と思うのだ。

一時的な狂気の発現と言えるかも知れない。パニックとはこの状態なのかも。

 

「あの人がそんなことをするとは考えられない」みたいなコメントをニュースなどで聞くけど、

あれはおそらく本当にそう感じているんじゃないだろうか。

 

恐怖は、どこか根源的な感情のように感じる。

生存欲求から来ているのではないか?と感じる。だから影響力が強いのだろう。

 

人が、自分の存在に関わるような心からの願いや望みが妨げられるかも知れないと感じた時に出て来るのが恐怖なのかな?

と考えている。